礼拝説教


2008/2/17  受難節第2主日礼拝

 「だれの罪でもない」  牧師 大村 栄

ヨハネ福音書9:1−12


◇「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」。弟子たちは彼の盲目が、人間の罪に対する神の罰であるという前提に立って、その罪の源がどこにあるかと追求する。人が互いを審くことはあってはならない。神の審きの前に沈黙すべきである。他者を審くだけでなく、自分を審く過ちも犯すことがある。「私がこうなったのはあのせい、このせい」と断定するのは神の裁きの先回りをすることであり、これも傲慢な態度である。

◇苦難はだれかの罪の結果であると断定し、その罪の原因や責任を問う弟子たちに対する主イエスの応えは画期的なものだった。「3:本人が罪を犯したからでも、両親が犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。苦難に対して「なぜ、どうして」と原因を求め、責任を追求する態度から、「これは何のための苦難なのか」と目的を考えるよう勧めている。神は私たちの存在を神の業(働き)を現わす素材として用いたもう方なのだ。

◇このような生き生きとした人生観を、多くの人に宣べ伝え、分かち合いたい。それが教会の使命だ。「4:わたしたち(教会)は、わたし(キリスト)をお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」。御国が到来する終末の前にこれを行う教会の、責任の重さを示される。

◇このあと主は泥をこねて彼の目に塗り、「7:シロアムの池に行って洗いなさい」と命じた。彼は信じて従い、それが彼に癒しと、信仰への出発をもたらした。その後元盲人である彼はユダヤ人たちに取り囲まれながらも、主を「33:神のもとから来られた人」と告白し、それゆえ「外に追い出された」。するとその追放された彼にイエスが近付いて、「35:あなたは人の子を信じるか」と問い、彼は「38:主よ、信じます」と応えてひざまずき、ここに彼の礼拝者としての新たな人生が始まった。これがまさに「神の業が現れる」出来事だったのだ。

◇私たちの人生も神の業が現されるステージとして用いられたい。そして常に新たな信仰告白が生まれることをうながす教会でありたい。

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