礼拝説教


2008/1/6  礼拝説教 (新年礼拝/公現日)

「この人を見よ」  牧師 大村 栄

ヨハネ福音書1:19〜34


◇今日エピファニー(「現れ」の意)は、人としてこの世に現れたイエス・キリストが、神性を人々の前で現したことを記念する日。私たちは東方の博士の訪問が、「異邦人への顕現」であったとするが、ギリシア正教ではイエスの受洗をその記念とする。

◇主イエスは今日の箇所で、洗礼者ヨハネからバプテスマを受けるためにヨルダン川に登場する。ヨハネはこの方をさして「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と叫ぶ。出エジプトの時に「小羊」の血を入口に塗ったイスラエル人の家は、「滅ぼす者の災い」が「過ぎ越し」たという民族の救いの歴史(出エジプト記12章)を記念して、毎年過ぎ越しの祭りで小羊の肉が捧げられる。このことを念頭においてヨハネはイエスを「世の罪を取り除く神の小羊」と呼び、この方を「見よ」と叫ぶのだ。

◇ヨハネ福音書の終わり近くにも、「見よ」と主イエスを指し示す言葉がある。イエスがローマ総督によって死刑判決を受ける場面。ポンテオ・ピラトは鞭で打たれて痛ましい姿になったイエスをユダヤ人たちの前に引き出して言った、「見よ、この男だ」(18:5)、ラテン語で「エッケ・ホモ」。ホモは一般的な人を指す言葉。お前たちはこんな無力でみじめな男を救世主だと言うのかとピラトは言った。

◇しかし神はまさに「こんなこんな惨めな」人間の只中に身を置いて、そこに救いのみわざを成就されたのだ。讃美歌121「馬槽のなかに」(由木康作詞)の3節「この人を見よ、この人にぞ、こよなき愛はあらわれたる、この人を見よ、この人こそ、人となりたる活ける神なれ」。この鞭打たれたみじめな姿で立たれる主こそが「世の罪を取り除く神の小羊」として神から与えられた、私たちの救い、罪からの解放の代償だったのである。

◇今日公現日に記念すべきは博士たちの訪問か、ヨルダン川での受洗か、どちらでも良い。「この人こそ、人となりたる活ける神なれ」との確信が与えられて、私たちの内にキリストの神性が現される日が私たちのエピファニーである。「この人を見よ」と目を上げつつ、この年をご一緒に歩んでいこう。


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