礼拝説教


2007/12/2  礼拝説教 

「あなたを支える根」  牧師 大 村  栄

ローマ書11:13〜24


◇パウロは自分を「13:異邦人のための使徒」と自認するが、キリストを拒んで十字架につけた同胞ユダヤ人の救いを諦めた訳ではない。罪を犯したユダヤ人にも救いが与えられるなら、それは「15:死者の中からの命でなくて何でしょう」。失敗や挫折にも、奇跡的な回復の希望がキリストによってある。

◇後半ではユダヤ人と異邦人の関係を、根と枝に例える。「17:ある枝が切り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され」る。丁寧に育てた良い枝を切って、野生の悪い木を接木するとは、園芸の常識に反する行為だ。これは異邦人に対する警告であると言える。救いはユダヤ人から始まったという事実を忘れてはならない。私たちにもそれぞれの根がある。「18:あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです」。弱い枝でしかなかった私たちを、神が自然の法則に反して良い根に接ぎ木して下さったのである。

◇しかし時には、自分が接がれた根を受け入れられない時がある。遠藤周作は小説『沈黙』(1966)の中で、転びバテレンの口を通して、日本の風土は福音の根を腐らす「沼地」だと言わせている。しかしイエズス会士ロドリゴが、長崎奉行所の中庭で踏絵を踏まされる時に、踏絵のなかのイエスが「踏むがよい。お前のその足の痛みを、私がいちばんよく知っている」と言う。遠藤はこの小説を通して、西洋的キリスト教の伝統から脱却して、福音の本質に関わる問い直しを試み、「泥沼」の中にこそ「痛みを知る」キリストを見いだすというテーマに到達した。

◇根と枝の関係は、それがたとえ沼地のように困難で、素直に連結していなくても、接ぎ木の仕方が自分の願いや理想に反していても、そこに人の思いを超えた「実り」の実現を見るのではなかろうか。

◇そのために私たちは、根と枝の関係の背後に、もっと深いところにおいて、地下水脈のように私たちがつながっているべきものを自覚したい。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言われるキリストにつながることだ。クリスマスは神がキリストを通して私たちに「つながる」と言って下さった日だ。その日を喜び迎える備えをしよう。

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