礼拝説教


2007/11/11  礼拝説教

「望みなきときにも」  牧師 大村 栄

ローマ書4:13−25


◇アブラハムは神に召されて立ち上がった。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」(創世記12:1-2)。彼が「大いなる国民」の父となるのは、清く正しくあれと命じる「律法に基づいて」(13)ではない。「律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、(神の)約束は廃止されたことになります」(14)。

◇しかしアブラハムには後継ぎとなる子供がなかった。「そのころ彼は、およそ100歳になっていて、すでに自分の体が衰えており(口語訳では「死んだ状態であり」)、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした」(19)。夫婦とも体の衰えを感じる老化現象に対する焦りや不安を感じていた。老化はあらゆる人生の可能性を奪っていくと考えられる。日野原重明先生はラインホルト・ニーバーの祈りの言葉、「変えることのできないものを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ」を、「老い」という避けられないものに対して持つべき態度として勧めている。

◇しかしアブラハムは老いを受容するだけでなく、さらに先の望みを持っていた。老化現象が進む中で「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ」(17)たのである。「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて信じ…ました」(18)。「それが彼の義と認められたわけです」(22)。その信仰によってのみ彼は「大いなる国民」の父となったのである。

◇彼はすべてを喪失していくような空しさの中でも神の約束を信じる信仰を失わなかった。彼にとっては老いという現実を超えて、さらにその背後にある神の約束こそが、ニーバーの祈りに言う「変えることのできないもの」、いや「永遠に変わらない真実」だったのである。彼はそれを「受け入れる冷静さ」と言うより、それを変わらず「信じぬく冷静さ」を持っていた。もうすぐ来る待降節は、そのような信仰を新たにする季節である。

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