礼拝説教


2007/11/4  礼拝説教

「堕落の始まり」  牧師 大村 栄

創世記3:1-15、ローマ7:7-13


◇「エデンの園」の禁断の果実は、「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる」に見え、「おいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」。神のようになりたいという野心と、食欲、自己顕示欲などあらゆる欲望を満たす要素が含まれていた。

◇アダムとイブは誘惑に負けてこれを食べた。神は禁じたら決して食べないロボットではなく、生きた対話の相手として人間を造られた。その自由を彼らは誤用して果実を食べ、その結果「自分たちが裸である」という恥を知った。神は木の間に隠れた彼らに「どこにいるのか」と尋ねる。二人の居場所を知らないのではない。呼びかけへの応答を求めているのだ。人間の側から破ってしまった神との関係を、神から回復を呼び掛け、和解しようとして下さる。

◇しかしそれに対する二人の態度は、責任を転嫁し合い、神のせいにさえしている。神との関係の破れは二人の関係を破壊した。ここに罰として「塵に返る」という死が宣告されねばならなかった。このアダムの罪のことを「原罪」と言い、それに対する罰としての死が、すべての人に及ぶものとなった。

◇ローマ書でパウロは、「律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう」と、禁止命令を受けるとそれを犯したくなる人間の実態を指摘する。人間の心には、神の言葉に逆らおうとする性質がある。これが最大の弱点であり、サタンはいつもここに狙いを定めてくる。

◇「創造された人間が弱さを抱えていたということは、神の善性または力に対する疑問を呼び起こすことになるか」(エイレナイオス)という問題をテーマに、「はこぶね」巻頭言を原田譲治伝道師が書いている。人間はあえて未完成なものとして造られ、しかしそれだからこそ「神とのドラマ(対話)に生きることをゆるされた恵みの裡におかれている」。

◇さまよっている私たちに神は呼びかけ、対話をして応えを求めて下さる。「あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」(イザヤ43:1)。クリスマスはその神の呼びかけに応える季節である。
(C) Asagaya Church, United Church of Christ in Japan, asagaya-church.com