礼拝説教


2007/10/7  礼拝説教

「主の食卓を囲み」  牧師 大村 栄
 <世界聖餐日>

Ⅰコリント11:17〜26


◇先週私はオホーツク海に面した興部伝道所で説教奉仕した。10人の大人と3人の子供による礼拝。礼拝後は持ち寄りの食事を頂く愛餐会だった。楽しく語り合う時だった。初代教会で行われた「主の晩餐」の伝統は、この愛餐会につながっていると感じた。

◇それは「家の教会」にキリスト者が集まって礼拝を行い、主イエスを偲んで行われる特別な食事だった。葬儀の際などに死者を偲ぶ食事を持つことがある。仏教の法事にも見られる。最初の「主の晩餐」(聖餐式)は「主の記念」として行われる特別な食事だったのだ。しかしその食事の仕方に、不作法や仲間争いがあったので、パウロは前半「主の晩餐についての指示」(17-22節)でこれを批判している。

◇そして後半「主の晩餐の制定」(23-26節)で、改めてこの食事の本来の意義を語っているのである。「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました」。

◇「最期の晩餐」の席でそう言われたのは、その夜に引き渡され、翌金曜日に十字架につけられて死ぬのは「あなたがたのため」であり、このパンはそのために捧げられるご自分の体であると言っている。教会が主イエスの死を記念して行う食事は、この最期の晩餐を想起するものでなくてはならない。当然そこに「仲間あらそい」などあってはならない。

◇しかしそれを食することの意味が分かっていなくては、その行為は空しい。信じる決意をして洗礼を受けた人にこそ、十字架の出来事が我が事として信じられ、聖餐の恵みが心身を満たすものとなる。聖餐式では「未受洗者は手を触れないで」と言うけれど、その前提である洗礼はすべての人に開かれているのだ。そして聖餐を受ける人々は「信じる決断」をした自分であることを覚えてほしい。

◇「あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」。「告げ知らせる。それから主が来られる」。世界の教会はその時を待つ聖餐共同体だ。
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