礼拝説教


2007/9/16  礼拝説教

「居場所を求めて — 放蕩息子のたとえ」  牧師 大村 栄

ルカ福音書15:11−32


◇弟息子は苦境の体験が自分の罪の結果であると自覚し、父の家に帰って罪を告白しようと決意した、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」(18-19)。しかし「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(20)。レンブラントの絵『放蕩息子の帰宅』では、ボロボロになって父の足下にひざまづく息子を、赤いマントを着た父が優しく抱く。

◇「家庭とは、欠点や弱さが、愛情というマントの下に覆われる、地上でただ一つの場所」という言葉を連想する。罪の告白を全部聞く前に、父は息子を赦し、「一番良い服、指輪、履き物」を与える。これらはみな彼がこの家の家族の一員であることを証明するものだ。息子は今や、彼自身の本来の居場所がある家庭、愛のマントの中に帰ってきたのだ。

◇「家族」は結婚や出産だけで出来るのではない。夫婦、親子が互いを受けとめ、受け入れていくことにおいて成立する。互いの罪を赦し合い、弱さをおぎない合い、居場所を認め合う。そうやって「欠点や弱さが、愛情というマントの下に覆われる、地上でただ一つの場所」が建設されていくのだろう。

◇兄息子は弟の帰宅に憤慨して家の外に立っている。長年父に服従してきた自分こそ、弟以上に愛される資格があると思っている。家族を赦せない、愛せない。それが彼に家庭での居場所を失わせている。父は外に出てきてそんな彼の傍らに立ち、「子よ」と親しく呼びかける。そのとき兄息子も居場所に戻って行ける。

◇赦されるはずのない自分、人を赦せない自分が、神には赦されている。「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの」(イザヤ43:1)。この神の大いなる愛を知って、私たちは自分の居場所を得ることが出来る。兄息子のように「人を赦せない、愛せない」自分、弟のように「愛されてない、赦されていない」自分を抱えつつも、いや、そういう自分だからこそ父なる神を必要とする私たちは、神の愛を告げる「教会」に最高の居場所を見いだし、そこからそれぞれの場所へと遣わされていく。
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