礼拝説教


2007/9/9  礼拝説教

「信仰への覚悟」  牧師 大村 栄

ルカ福音書14:25−35


◇主の弟子として生きるための否定的条件が繰り返される。家族を捨てて主に従わないなら…(26節)、「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ…」(27節)、そして「自分の持ち物を一切捨てないならば…」(33節)、そういう人々はいずれも「わたしの弟子ではありえない」。

◇家族を初め、大事なものを捨てることができるのはそれに優るものを発見した時。マタイ13:44-50では「天の国は次のようにたとえられる」と言い、「畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」。それほどの価値がある「天の国」。それは領域ではなく神の支配である。

◇『ケセン語(気仙沼地方の方言)訳聖書』は「天国」を「神様のお取り仕切り」と訳す。あらゆる課題もみんな、独り子を賜うほどに世を愛された神の支配にお任せすればよい。そういう世界を生きることができるなら、これ以上の幸いはない。

◇神を第一として生きるクリスチャンの人生を歩み始めるには決断が必要だ。後半はそういう「信仰への覚悟」に関する二つのたとえである。「28:塔を建てようとするとき」、「31:戦いに行こうとするとき」、いずれのときも「まず腰をすえて考えてみないだろうか」。大事業に取りかかる際には、対費用効果(コスト・パフォーマンス)を検討する。

◇しかし信仰のコスト・パフォーマンスを計算する前に、私たちはどれほどのコストを支払ったと言えるだろうか。私たちが支払うべきでありながら支払えずにいるコストを、実は主イエスが十字架で死んで、私たちの身代わりになって支払って下さった。ここにこそ最大のコスト(代償)が支払われているのである。その代償によって私たちは、本当に第一とするべきもの、「神様のお取りしきり」に委ねて生きること、天国の希望に生きることを知らされた。

◇神は熱意を持って私たちを、み手の支配の内に生きよと招かれる(15節以下の「大宴会のたとえ」)。この招きに応え、「神のお取りしきり」に身を委ねて生きる豊かさを味わおう。

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