礼拝説教


2007/7/29  礼拝説教

「枕する所もない」          牧師 大村 栄

ルカ福音書9:51−62

 


◇エルサレムへの道を進むイエスの前に、3人の弟子志願者が現れた。第一の人は「どこへでも従って参ります」と言うが、主は彼に「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と拒絶的だ。第二の人は「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と身内の重大事のために躊躇した。第三の人も家族を思って出発の猶予を願い出るが、この人には、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と、後ろ髪を引かれるなら来なくて良いと言われた。

◇第一と第三の志願者を拒絶し、第二の者を招かれる。その根拠は分からない。ただ弟子になるのは人間の選択でなく、あくまで主イエスの選びによるのだ。私たちがキリストを選んで自分に取り込むのでなく、私自身がキリストのものになることである。

◇家族が原因で主に従うことをためらっている点に注目したい。十戒にも「父母を敬え」とあるが、肉親や家族は自然発生的な関係と言える。それに対して、主に従うという行動は極めて主体的な行為であり、そこには意志的な勇気と決断が必要だ。

◇新渡戸稲造は名著『武士道』に、「中国では儒教が、父母に対する従順(孝)を人間第一の義務であるとしたのに対して、日本では忠実(忠)がその上に置かれていた」と記している。「武士道」精神においては、主君に対する忠誠は、時には家族への義務や責任の上に位置する。命を掛けて主君に「仕える」ことが最大の美徳であった。キリストにすべてを捧げて生きた人々、パウロやペトロや代々の信徒たちの信仰の生涯を、例えば四十七士が亡き主君のために青春をかけ、命をかけて仕えた「忠臣蔵」の出来事などと重ねて見ることはできないだろうか。

◇「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走る」(フィリピ3:13-14)ことを、パウロは人生の目標とした。私たちもそうでありたいが、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる」ようなためらいも多い。せめて、「おいでくださいイエスよ、ここに、この胸に」(讃美歌21-443)と心にお迎えする者でありたい。「人の子には枕する所もない」と言ってエルサレムへの道、十字架への道を歩まれる主を。
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