礼拝説教


2007/6/17  礼拝説教

「アメージング・グレイス」
  さゆ里キスト岡崎宣教師<青年伝道礼拝>

ルカ福音書8:40−48

 


◇「長血の女」と呼ばれるこの女性を知れば知るほど私たちに身近な存在に感じられてくるようです。ただ病気ゆえに不浄な者として疎外され、何の価値もない存在と決めつけられた。その上それは自分のせいであると、周囲が追いつめ彼女自身もそのように思いこまされている。だからこそ治りたいという必死の願いを持ちながらも、町の名士であるヤイロと違って、彼女は後ろからイエスにそっと触れることしかできませんでした。

◇イエスはそんな彼女を必死に探しました。なぜならイエスの奇蹟とは、単に病を治す力ではなく、苦しむ人を放っておけない、奇蹟の愛だからです。そして「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言ってあげたかった。なぜなら彼女の本当の願いは、治癒以上に、自分自身を取り戻したい、どんな自分であってもありのままで大丈夫なんだと信じたかったからです。

◇私たちも、突然の失職、いじめ、事故など理不尽な不幸に見舞われたとき、それまでの自分ががらがらと崩れ、無力な自分に何の価値も見いだせなくなります。ですからそれらの障碍が取り払われても、またいつ困難が襲ってくるのかという不安の中に生きています。仏教で人生を「生老病死」の四苦と認識しますが、確かにそうかもしれません。私たちはその暗闇の中を、足場も行く先も見えないまま歩んでいます。けれども、イエス・キリストが私たちの全ての困難や苦しみを既に負ってくださった、そして最低最悪の道のりを陰府までも歩んで下さった、さらにそこから復活してくださったのです。私たちのこの苦しみが終局ではない、と知っていらっしゃる方。暗闇の先には明るい光があると知っていて、「こっちだよ」と手を引いてくださる方。その主と一緒ならば私たちには常に希望があり、恵みがあると信じて生きることが出来るのです。

◇長血の女は迷信のようにしかもこっそりイエスを求めたにもかかわらず、それを主は「信仰」へと高めてくださいました。私が一緒だから安心して生きていける、と確信を与えました。私たちの信仰が如何に拙くささやかであっても、主がそれを愛おしみ清めて「信仰」へと高めてくださる、それはまたまさに<驚くほどの恵み>ではありませんか。
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