礼拝説教


2007/4/29 礼拝説教

「命を捨てるほどの愛」
                  牧師 大村 栄

ヨハネ福音書15:11ー17

 
◇ 15章前半のぶどうの木のたとえにおいて、主イエスは「わたしにつながっていなさい」(15:4)と言われる。それはキリストの愛の内に「とどまる」こと。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」。その愛の究極は「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。「命を捨てる」とは死ぬことではない。たとえば「命」を「時間」に置き換えれば、自分の生きている時間を自分で使わないで他者のために献げること、これが「友のために命を捨てること」である。

◇人生の多くの時間を他者のために献げ、それゆえに疲れ果てている人もいるだろう。しかしご自分の命を十字架に捧げる愛を実践された主イエスが、その人々の傍らにおられる,「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた」。報われないところで時間と生活を献げきる生き方について、「婦人は日常生活のたくさんの湯面で、知らず知らずにそれをさせていただいています」(「教会婦人」06年12月号、さゆ里キスト岡崎宣教師)。

◇主はその愛を行う者を「わたしの友」と呼び、もはや「僕とは呼ばない」。僕=奴隷はr主人が何をしているか知らない」。知る権利もない。不安を抱えつつ命じられるままに盲従する。中には知ろうとせず、諦めてしまっている人もある。主はそのような人々を「友と呼ぶ」。盲従ではなく信頼して平安に、主体的に従うことを勧められている。

◇ただし傲慢も罪である。選びの主体は神にある。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」。選びには目的がある。第一の目的は愛の実践が「実を結び、その実が残るように」。第二は「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるように」。愛の実践における折りの勧めだ,私たちが愛め限界を感じ、「神さま、愛が通じません。これ以上私には無理です。どうかあなたが彼らをお救い下さい」。そうやって折る祈りは必ず聞かれる。そのことを確信し、証しするために、主は私たちを選ばれたのである。

◇神の愛の使者としてつかわされる私たちの責任と使命、しかしここに大きな喜びと、何にも変えがたい豊かな人生があることを信じて生きよう。




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