礼拝説教


2007/2/11 礼拝説教

「聖霊の息吹」 大宮 溥 名誉牧師

ヨハネ福音書3:1−16


◇阿佐ヶ谷教会の創立記念日にあたり「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」(Ⅰコリント15:10)との思いを深くする。平岩愃保牧師始め初代の日本キリスト教会の先達たちは、日本が国家として新しく出発する際に、福音を基礎として「神の国」として築かれてゆくことを願った。このことは今日改めて思い起こされなければならない。なぜなら、今日人間の崩壊が深刻であり、社会がバベルの塔のようになっているからである。

◇イエス・キリストはニコデモに対して「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)と告げられた。ここで「新たに」と訳された原語は「アノーセン」で、「新たに」とも、「上から」とも訳せる。これを肉体的な意味にとると生まれ変わることは不可能である。しかし「上から」神の力が働くときに、人は生まれ変わって生きる事ができるのである。

◇それは「霊によって生まれる」(5節)ことである。「霊」(プニュウマ)は「霊」とも「風」とも訳せる。神の霊は風のように、見えない力としてわれわれを生かしている。この力に気づき、これに動かされるとき、われわれは日々新しく生きる。この霊は「聖霊」であるが、創世記に神が土で人を造り、その鼻に命の息を吹き込まれると「生きたもの」となったように、わたしの霊、生命力となるのである。ところが、われわれが自分に凝り固まり、エゴの塊となるとき、神とわれわれとの交わりが切れてしまう。そして根が切れた草が枯れてゆくように、霊的枯渇状態、霊的窒息状態に陥ってしまう。

◇このような状態にある人間が「新たに、上から生まれ変わる」ために、イエス・キリストは十字架の犠牲を払われたのである。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」(14節)。これを「風」の譬えで言うと、人間の現実の世界は、天からの風が吹き込んでくる「風口」が塞がっている状態であり、人間が下からそれを開くことができないので、キリストが上から、神から人間の下へ来て、人間の罪を自分が負い、風口を開いてくださったのである。こうして霊的窒息状態に陥っていた人間に、再び命の息が吹き込まれ「新たに生きる」ことが可能になったのである。

◇「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(16節)。ここで「霊」が「愛の霊」「愛」であることが示されている。今日霊的枯渇状態にある人間は、イエス・キリストを迎えて「心が不思議に燃える」(ウェスレー)、神の息吹を必要としている。日本の教会史も阿佐ヶ谷教会史も聖霊の息吹で生きてきた。この伝統を引き継いで、われわれも新しく聖霊の息吹を吹き込まれて新しくせられ、伝道と新しい社会の形成に踏み出そうではないか。




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