礼拝説教


2007/1/21 礼拝説教

「神の協力者、和解の使者として」  牧師 大村 栄

Ⅱコリント6:1−10


◇5:11以下、今日の箇所を含む部分の小見出しは「和解させる任務」とある。聖書でいう「和解」とは、神と人との正しい関係(=義)を回復すること。それは人間のいかなる努力によっても実現し得ない。ただ神が一方的に犠牲(=十字架)を払うことによって実現した。神はそのようにして実現した「18:和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました」。その任務を託された私たち、キリスト者のあり方が6章に語られる。

◇パウロは私たちを「1:神の協力者」と呼ぶが被造物である人間が神と対等ではあり得ない。Ⅰコリント3:9「わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです」。私たちは神に生かされ、それぞれの課題を通して神の目的のために道具として用いられる。

◇創世記37章以下に登場するヨセフと、その波瀾万丈の生涯を連想する。兄弟によってエジプトに奴隷として売られた彼は、神に与えられた能力によってファラオに重用され、エジプト全土の食糧管理を任される。やがて飢饉が襲いエジプトの備蓄食料を求めてやって来た兄たちと再会する。創世記45:4「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです」。自分を奴隷に売った兄たちを前にして、彼がここで怒ったり、恨み言を言えば和解はありえない。しかしヨセフはこう言った、45:5「(民族の)命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」。ここで彼は自分の人生を語る主語を、加害者である兄たち(あなたたち)から神に置き換えて語ることによって、自分の不幸な青春の意味を知ることができた。そしてそこに自分の人生と歴史の目的を見出している。こうやって神の歴史の中に自分の生を位置付けることこそが、神の目的のために用いられ、「神の協力者」として生きる人生のダイナミズムである。

◇6:2「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」はイザヤ書49:8の引用。当時のイスラエルは大国に抑圧される弱い民だった。しかし彼らが神の選びを自覚し、罪を悔い改めるならば立ち直る希望がある。そのとき「王たちは見て立ち上がり、君侯はひれ伏す」ような輝きを取り戻すだろう。イザヤはその時を「恵みの時、救いの日」と呼んだ。 ◇これを受けてパウロは、「今や、恵みの時、今こそ救いの時」と叫ぶ。弱い民が神にすがる時に輝きを取り戻すように、私たちも自らを神の憐れみに生かされる者として自覚し、神の働きのために自分を差し出すなら、その時を「今や、恵みの時、今こそ救いの時」と言う事態が実現するのだ。

◇「7:左右の手に義の武器を持ち…」。キリストによる和解を両手に持つならば、ほかに何も持たないということ。「神の協力者」たちは丸腰の兵士たちだが、「10:無一物のようで、すべてのものを所有しています」。これほど豊かな生き方はない。


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