◇「嵐鎮め」の箇所が与えられた。前の箇所を見ると、イエス様は相当お疲れであった。教えておられた服のままで、乗っておられた小さな舟で、風向きが悪いと大波が立つガリラヤ湖へと弟子たちは漕ぎ出した。事態は悪化し、大風と大波で舟は水浸しになり、沈みそうである。ところがイエス様は、舟の「とも」の方で眠っておられる。「とも」は舟の「かじ」のある側である。イエス様はこの「かじ」の近くで眠っておられた。
◇弟子たちは、イエス様の様子を見て、「イエス様は私たちの命などどうでもいいと思っておられるのか。」と、怒りを込めた言葉をイエス様にぶつける。しかし、イエス様が風や湖に命じられると、それらは、すぐに収まる。だんだんと静まるのではない。一瞬にして、パタッと止むのである。37節の「激しい突風」は「大きな風」、であり、39節の「すっかり凪になった」は「大きな静けさが起こった」である。イエス様の言葉で一瞬にして状況が切り替わった、とマルコは伝えている。「この方はどなたなのだろう」と言うほど、弟子たちはイエス様を十分には理解していない。
◇教会は、世の中から見れば小さな舟であり、しばしば大波に襲われ、水をかぶり、沈みそうになる。時には、イエス様は助けてくださらないのか、と失望することもある。しかし、思い出すべきことがある。イエス様は舟のかじのところにおられる。祈り求めるなら、イエス様はいつでも、起き上がってかじを手に取って、舟を正しい方向に向けてくださる。
◇原典を分析してみると、35~38節は、継続あるいは反復を表す言い方である。それに対して、39節の起き上がる、叱る、言う、という言葉と40節の「イエスは言われた」という言葉はすべて、過去の一点で起こったことを表す表現である。そして、41節で弟子たちが互いに言い合うのは再び、継続、反復の言い方である。
◇イエス様は、ある時間の流れの中で、一瞬にして物事を変える力を持っておられることがわかる。波や風が舟を襲う時が続いても、イエス様がバシッと叩き切ってくださって、全く新しい時を創り出してくださる。信じることができない者を、信じる者へと変えてくださるのである。



