◇福音書は主イエスが十字架にお架かりくださったこと、墓に葬られたことを伝えている。この出来事は、ユダヤ人指導者たちの主イエスに対する敵意、殺意によって葬りさられたかのように見えるが、主イエスご自身は決して受動的ではなく、むしろ能動的にご自分から十字架の死に向かわれたのである。
◇主イエスはご自分の死をしばしば予告しておられたが、そのことと、実際に主イエスが十字架で死なれたこととは受け止め方に大きな違いがあった。死は決定的な断絶であり、不可逆だからである。弟子たちも人々も、主イエスが死の支配に引きずりこまれた、と捉える以外になかった。
◇主イエスの地上の歩みは十字架の死に向かっているが、それで終わらずに復活されたことが最終到達点となっている。復活は、マタイによる福音書が証言するように、弟子たちによる捏造ではない。十字架と復活は、私たちが使徒信条において告白するように、キリスト教信仰の根幹なのである。主イエスが自ら進んで十字架で死なれたことは、私たちの個々の罪を代わって身に負ってくださっただけでなく、地上に生きる私たちが受けるべき神の審判を、自ら受けて死んでくださったのである。
◇マグダラのマリアもペトロももう一人の弟子も、復活の事態を理解できず、イエスのご遺体を、誰が、どこに運び去ったのか、という疑問の中に留まっている。しかしこの出口の見えない状況に、主イエスご自身が突破口を開いてくださる。11節以降には途方に暮れて泣いているマリアに、復活の主イエスが「マリア」と声を掛けてくださったことで、マリアは主だと分かり、「ラボニ」と反応することができた。ユダヤ人たちを恐れて家の中に閉じこもっていた弟子たちも「あなたがたに平和があるように」と主イエスが呼びかけてくださったことで復活の喜びに包まれた。この呼びかけは私たちに対する、死の支配からの呼び出しである。復活の主のこの呼びかけによって、私たちは新たに生きる者とされるのである。



