◇新年に大勢の人が祈りの心をもって初詣に向かう。私たちキリスト者にも新しい年の願いがたくさんある。しかし神様は、私たちが祈り願う前に私たちの必要をご存知であり、神様の方から私たちに呼びかけてくださる。私たちは神様の声を聞きつつ、必死に祈り願うのである。
◇イザヤ書で神様は「慰めよ、慰めよ、私の民を」(40:1)、「荒れ野に主の道を備えよ」(40:3)と呼びかけられる。そして「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、私たちの神の言葉はとこしえに立つ」(40:8)と言われる。この預言を聞いているのは捕囚の民である。神様の御声に耳を傾けず、ユダ王国を滅ぼしてしまった悔いの思いをもって、神様の言葉を聞いている。
◇私たちはいろいろな願望を抱くが、神様に聞くことなしに自分の足もとを見ることはできない。第二イザヤは「見よ、あなたがたの神を」と、恐れず神様に聞けと民に呼びかける。神様は私たちを慰め、恵みの中へと「買い戻して」くださっているからである。
◇第二イザヤのこの預言は、クリスマスの恵みと重なる。40:10の「見よ、主なる神は力を帯びて来られ、御腕によって統治される。見よ、その報いは主と共にあり、その報酬は御前にある。」は神様の力による裁きではない。滅びの中にある者を慰め、贖い出す神様の恵みのことである。その集大成は40:11である。「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。(新共同訳)」という言葉は、主イエスにおいて実現した(ヨハネ10章)。
◇私たちは主イエスに養われ、御声を聞き、主に従って進む群れとされている。そして主イエスは私たちに「私には、この囲いに入っていないほかの羊がいる。その羊をも導かなければならない(ヨハネ10:16)」と言われる。イザヤが捕囚の民に神様の贖いと慰めを伝えるために遣わされたように、阿佐ヶ谷教会にある私たちも神様の命に生きる喜びと幸いを宣べ伝え、証しする者となろう。



