◇ユダヤ人指導者たちの画策によって、主イエスは十字架につけられる。前日の夜から大祭司や総督のところを引き回され、とても正当とは言えない裁きを受け、衣服をはぎ取られ、鞭打たれ、苦しみの場面が続く。総督ピラトは、イエス様に罪を見出せないのに、ユダヤ人の叫びに負けてイエス様を十字架へと引き渡す。ユダヤ人たちがイエス様を引き取った。ローマ兵も一緒だった。イエス様はローマ的秩序を乱す罪で告発されたのである。
◇「ナザレの人イエス、ユダヤ人の王」と罪状書に書かれたが、これにユダヤ人たちは「自称した」と加えてほしい、と不満を言う。これは暗に「この者はユダヤ人の王などではない」という主張である。ピラトはそれを拒否する。ピラトは「ローマ皇帝に対抗する者」というニュアンスを込めて「ユダヤ人の王」と書いたのである。
◇兵士たちはイエス様に茨の冠をかぶせ、紫の衣を着せて嘲る。その姿は罪状書きとはほど遠く、人々はこのような者が王であるはずがないと考えた。「ナザレから良いものがでるだろうか」というのが人々の常識だったからである。しかし、イエス様は世の王とは全く異なる王であり、世の罪を除く神の子羊でもあられる。この世を実際に生きたイエス様が十字架につけられることで救済の歴史を新たにしてくださったのである。この真理を、ピラトは知らずにさし示した。理解していなかったが、結果的に正解を書いたのである。罪状書きは多言語で書かれた。それは真実が世に明らかにされ、救いが全世界の出来事になったことを示している。
◇「成し遂げられた」は、後がない、死による断絶、絶望の言葉として読むべきではない。イエス様が洗足のできごとによって示された愛を、命をさし出してくださることで、貫徹してくださったのである。その愛の前に私たちは立たされている。17章でイエス様は、すべての人が神様に心を向けて、愛されていることを信じることができるようにと祈られる。欠けのある私たちだが、招きを受け入れ、主の愛を伝える者として歩もう。



