◇この物語はしばしば一人のサマリア人が神の前に正しい応答をして主イエスに賞賛されたのに対し、残りの九人のユダヤ人は主イエスのもとに帰ってこなかった残念な人々であるというふうに解釈される。しかし注意深く読んでみると社会的・宗教的に正しい行動をしたのは主イエスのもとに帰って来なかった九人であり、実は主イエスの元に戻ってきたこのサマリア人の行動は「正しくなかった」のである。
◇この十人が患っていた規定の病とはレビ記13~14章に規定されているものである。規定の病を発症したものは汚れていると宣言され、共同体から疎外された生活を送らなくてはならなかった。彼らが通常の生活を送るためには、病の癒しと祭司による贖いの儀が必要不可欠であった。遠くから「イエス様、先生、私たちを憐んでください」と叫ぶ彼らに、主イエスは律法に沿って「行って、祭司たちに体を見せなさい」とお答えになる。十人は主イエスの言葉に従い、九人のユダヤ人は彼らの聖所へ、そして一人のサマリア人はゲリジム山の聖所へと向かった。そして彼らはその道中に癒されるのである。
◇九人のユダヤ人は律法の行いと主イエスの言葉を遵守して、癒された後もそのまま祭司の元へと向かった。彼らが一刻も早く祭司に体を見せ贖いの儀を執り行ってもらい、早く共同体生活に戻りたかったのは想像に難くない。しかし、一人のサマリア人は律法の教えを破って、主イエスのところへと戻り、足元にひれふし、感謝を捧げたのである。このサマリア人が主イエスのもとに帰ってきたのは律法的にも社会的にも正しくない行動であった。しかし、主イエスは彼の正しくない行いを見て「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と声をかけてくださる。サマリア人は律法の行いを度外視して主イエスの足元にひれ伏した時、清い者として受け入れられた。人が、全ての正しいとされる事柄を通り越して、神のみ前に進み出る時、義しい者として受け入れられる。これが私たちに与えられている福音である。
