2025/09/14「主イエスを否んでもなお」ヨハネによる福音書18:15~27 牧師 古屋治雄

◇私たちは、十字架の出来事を、聖書を通して 繰り返し知らされており、それこそが信仰の中心 であることを繰り返し告白している。だが十字架 の出来事の描写は、共観福音書とヨハネ福音書 で異なっている。共観福音書ではイエス様が沈 黙のうちに裁きを受ける姿が描かれるのに対し、 ヨハネ福音書では「私は世に向かって公然と話し てきた」(18:20)と力強く語るイエス様が強調され ている。実際、ヨハネ7章や12章には大声で神の 真実を証しした場面がある。

◇ところがユダヤ当局はその神の真実に向き合 わず、ローマへの反乱を恐れて「一人の人が民 の 代 わ り に 死 ぬ ほ う が 好 都 合 だ。(11:30、18:14)」と政治的な事柄として処理しようとする。 そこには、イエス様が願われたような福音の受け とめ方は全く無い。彼らは、イエス様を通して示し てくださっている神様の真実に、全く繋がろうとし ていないのである。

◇の中で注目されるのが弟子ペトロである。彼 は大祭司の庭まで従ったものの、三度「違う」と否 認した。それは「知らない」と言うよりも強い否定 であり、主イエスを守ろうと剣を抜いた事実まで 否定し、自らの存在を完全に打ち消し、人間的 には全く信用を失う決定的な裏切りである。

◇人間の側から主イエスとの関係の再構築する 術は全く無い。しかし主イエスは既にその否認を 予告され、さらに「私は信仰がなくならないよう に、あなたのために祈った。だから、あなたが立 ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさ い」(ルカ22:32)と語られた。人間の側からは断 絶を修復できないが、神はなお新しい命を与え てくださる。「主よ、……あなたのためなら命を捨 てます」(13:17)と決意表明したはずのペトロは砕 かれ、涙を流したが、主イエスの力よって復活の 証人とされ、弟子たちは立ち上がり、そこから教 会の歴史が始まった。教会の歩みは、この「挫折 した者をなお立て直す神の力」から始まったので ある。弱さを抱えた私たちの歩みは、それでもな お生かしてくださる神様の恵みに支えられている のである。