2025/03/09 「「イエスの栄光を見た預言者イザヤ」ヨハネによる福音書12:36b~43 牧師 古屋 治雄

◇ユダヤの民にとって大切な過越の祭りが始まろうとしている時、主イエスは重大な決心をされてエルサレムにお入りになった。主イエスは、ご自分がこの世の力に裁かれて死んでいくことによって実はこの世の力が裁かれると断言されたが、その真理は人々に理解されなかった。ヨハネはそのことを旧約聖書のイザヤ書の二箇所から引用している。38節の預言はイザヤ書53章1節からの引用で、「苦難を受ける主の僕」のことが預言されている冒頭の言葉である。苦難の僕の姿と主イエスが死に向かう姿の重なりを示している。そして主イエスが死へと向かうことへの民の無理解をイザヤ書6章からも引用し、主イエスが死へと向かってくださった本当の意味を私たちに明らかにしている。「預言者イザヤの言葉が実現するためであった」(38節)とはどういうことなのか。神様と私たちの関係が、人間の背きや無理解によって断絶へと向かっていることを伝えているのではない。「神は彼らの目を見えなくし 心をかたくなにされた。 彼らが目で見ず 心で悟らず、立ち帰ることのないためである。 私は彼らを癒やさない。」とあるが、ヨハネは父なる神様の人間への厳しい裁きの中に御子イエス・キリストが自ら分け入ってくださり、ご自身の十字架の死を賭けて父なる神様に挑戦してくださっていると受け止める。「今、私は心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、私をこの時から救ってください』と言おうか。しかし、私はまさにこの時のために来たのだ」という27節の主イエスの言葉には、その決意が表明されている。

◇700年以上の隔たりを越えてイザヤが仰ぎ望んで見た主イエスの栄光とは、神様に滅ぼされても仕方がない私たち人間をご自身の死を賭けて根本的に変えてくださる輝きであり、神の民として生きてゆける希望の光である。「私を信じる者が、誰も闇の中にとどまることのないように、私は光として世に来た」(46節)という御言葉を新たな糧として、今週も歩もう。