2022/04/17 「恐れは 喜びに変えられる」マタイによる福音書28:1~10牧師 古屋 治雄

ー復活祭礼拝ー

マタイによる福音書28:1~10
牧師 古屋 治雄

◇イエス様の十字架の死によって、ローマの権力者も、ユダヤの指導者も、すべては決着済みと考えた。安堵した者もいただろう。弟子たちも、イエス様との関係は解消するしかない、宗教活動を続けることはできないと考えていた。婦人たちが墓に来たのも、何かが起こると知っていたわけではない。イエス様の死を、いわば追認するために来たのである。人間の側から新たに何かを始めることはできない、そう思われた。

◇弟子たちは、信じることも、考えることも、歩み出すこともできないでいた。イエス様の3回にわたる「受難と復活の予告」にもかかわらず、み心を知ることができないでいた。重い重い鉛のような心に閉じ込められて、信じることができなかったのである。弟子たちに隠されていたみ心とは、イエス様がこの地上に来られたのは、死すべき人間の本性を背負い、受け取り、罪人として死ぬためだということである。イエス様は、たしかに十字架で殺された。そうではあるが、ご自身の意志で十字架に向かわれたのである。

◇この朝、弟子たちは恐れと悲しみの重さに深く沈んでいた。誰もがこの先はないと思っていた。しかし終止符は打たれていない。神様は驚くべき御業をもって介入されたのである。8節に注目しよう。婦人たちは、天使から(弟子たちより先に)イエス様の復活を告げられる。その言葉を聞くと、「恐れながらも大いに喜び」、急いで墓から走りだすのである。この時、婦人たちは恐れに支配されていたのではない。喜びがすでに与えられているのである。このことは注目に値する。9節でイエス様に出会う前にすでに喜びが与えられている。喜びが開始されている。そしてイエス様が行く手で待ち受けていてくださるのである。彼女たちはイエス様から、弟子たちにみ言葉を伝えるようにと託される。

◇私たちもまた、出会う者とされ、「伝えよ」と託された者である。そしてイースターごとに、いや日々、生命に呼び出されている。私たちは死を克服した生命に生きることができる。心から賛美して日々、望みをもって歩んで行こう。