2026/1/18「弟子」マルコによる福音書1:14~20 牧師 太田好則

◇洗礼者ヨハネが捕らえられたことで、宣教活動は押しつぶされたかに見えた。しかし先駆者ヨハネに続いて今や、神の子イエス様が福音を宣べ伝えてくださる。福音宣教は留まることがない。

◇イエス様は「神の国は近づいた」と言われた。英語聖書の過半数で、「近づいた」をat handと訳す。神様の支配の完成は、手の届くところまで来ている。神様は絶対善であるから、神様にきちんと向き合っている人には大きな恵みを与えてくださるし、神様のお働きを否定する人、拒否する人には厳しい裁きが下るのである。福音を受け入れるのか、受け入れないのか、は人それぞれの決断だが、イエス様は招いておられる。自分の欠け、弱さを認めて、イエス様とそのお言葉を受けいれなさい、と言われる。それゆえ、「神の国は近づいているかもしれないが、今日、明日ではない。」と考えているとすれば、それは滅びの道への第一歩なのである。

◇「弟子」とは「精神を振り絞って、物事を深く考える人」である。もう少し強く言うと、「先生の世界観と生き方を受け入れるために、身を捧げる人」である。漁師であった4人は網、つまり生活の手段を捨てて、家族や友人との関係を捨ててイエス様に従う。イエス様の道を歩んで行こう、という弟子としての覚悟が与えられたのである。

◇イエス様の弟子たちは、失敗もする。何よりも、イエス様の十字架の時には逃げ出してしまう。先生の世界観も生き方も、共有できていない。しかし、彼らの失敗や躓きにもかかわらず、復活のイエス様は弟子たちを裁いたり罰したりすることなく、むしろ慰め、回復し、励まし、弟子たちを使徒として、つまりイエス様ご自身の代理人として派遣されるのである。

◇私たちもイエス様の弟子である。弟子の覚悟とは、イエス様の恵みを信じることと、私たちの心をイエス様の方に向けて生き方を変えることの2つである。そのことによってイエス様は、恵みによって、取るに足りない私たちをご用のために用いてくださるのである。