2025/11/02「十字架に映し出される人間の正体」ヨハネによる福音書18:38b~19:16a牧師 古屋治雄

◇教会暦では一年で最も長い聖霊降臨節を終え、今は降誕前節に入っている。やがて待降節を迎えるこの時期、私たちはクリスマスを喜びつつも、主イエスが十字架に向かわれたことを忘れることはできない。救い主の誕生と十字架の死とは切り離せず、降誕の喜びは十字架の愛に根ざしている。
◇18章から19章において主イエスはユダに裏切られ、ローマ総督ピラトのもとに引き出される。ピラトは官邸の中で主を尋問し、「あなたはユダヤ人の王なのか」と問うが、主は「わたしの国はこの世のものではない」と答えられる。ピラトは理解できず、「真理とは何か」と問うているのが印象的である。ピラトは三度、「この人には何の罪も見いだせない」と語り、主イエスへの畏れが湧き上がっているように見受けられるが、群衆の叫びとユダヤ人指導者たちの圧力に屈して正義を曲げ、主を十字架へと引き渡す。
◇ユダヤ人たちは神の律法を掲げながら、実際にはローマ皇帝の権威を恐れ、神の子を拒んだ。民は「イエスではなくバラバを」と叫び、真に危険な者を選び取るという、矛盾に満ちた人間の正体を露わにした。弟子たちもこの場面に姿を見せていないことによって、負うべき責任を負っていないことが示されていると言えるだろう。
◇恐れと自己保存、沈黙と逃避の中に人間の罪が浮き彫りになる。ピラトもユダヤ人たちも弟子たちも、すべての人間が神の御前に罪ある存在である。自分はこれらの人々のどこにいるのか?私たちはそのことを知らされる。しかしそのことの全てを主イエスはご自身のうちに受け取り、十字架において贖われた。
◇ヨハネは、主が十字架に付けられたのは「過越祭の準備の日の正午」であったと記し、それが過越の小羊の屠られる時刻と重なることを示す。主はまさに「世の罪を取り除く神の小羊」として働いてくださっている。降誕前節にあって、私たちは主イエスの眼差しを受け止め、十字架の主を仰ぎ見つつ従って行きたい。