◇主イエスは山上の説教で「義に飢え渇く人々は、幸いである その人たちは満たされる」(マタイ5:6)と言われた。昔も今も神の正義と公平がこの地上に実現されているとは言えない。私たちは神様の求める正しさを都合良く歪めてはならない。主イエスはさらに「義のために迫害された人々は、幸いである 天の国はその人たちのものである」(マタイ5:10)と語る。主イエスご自身が人間の思惑によって死へと追い込まれたが、それにより私たちに天の国の幸いをお示しくださった。
◇ローマ支配下で反乱首謀者や重罪人はローマ帝国によって死刑にされたが、主イエスの場合はユダヤ指導者たちが死刑を求めた。しかし総督ピラトは死刑にあたらないと考えた。ピラトは力ある王がやがて到来するというメシア思想を知っていたであろう。そこで「お前はユダヤ人の王なのか」と問うた。しかし主イエスは「私の国は、この世のものではない」(36節)と言われた。ピラトはこの答えを理解できず「それでは、やはり王なのか」と自分の発想でしか主イエスを見ることができなかった。
◇続いて主イエスは「私は、真理について証しをするために生まれ、そのために世に来た」(37節) と言われた。この「真理」はこの世的なものではない。ピラトは主イエスの話についてくることができず「真理とは何か」と問い返す者とされた。この問いはイエス様から私たちにも投げかけられている。
◇主イエスが言われた「真理」は抽象的なものではない。神の真実と言い換えて良い。主イエスが神の真理を証しするために来られたことは、この福音書の冒頭で語られている。「私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた。律法はモーセを通して与えられ、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」(1:16-17)と。主イエスの十字架は神様の真理を示している。だから私たちは主イエスにより神様の恵みとしての真理の中に生かされている。
