◇「人間は皆、キリストの裁きの場に出て、この地上で肉の体において生活していた時のことについて、申し開きをしなければならない。」パウロとその仲間、テモテ、テトスらはそう信じていた。だからこそ、「主を畏れることを知っている」と言うことができる。「畏れ」は恐怖ではない。旧約聖書が言うように「知恵の初め」なのである。裁きの結果を心配することではなく、肉の体で生きている間に、悪を離れて生きること、主を賛美して生きることが、私たちにとって最高の知恵なのである。それゆえパウロたちは、少しでも多くの人を救おうと、神様とイエス様について理屈で順序正しく語るのである。
◇イエス様がすべての人の罪を、小さな過ちも、大きな犯罪も、人間のいやらしさも、みな背負って死んでくださったので、すべての罪は滅ぼされ、人間は、その罪もろとも、古い生き方から死んだ。そして生き方を方向転換させられた。自分のためではなく、イエス様のために、また他者に仕えるために生きるようになる。生き方の方向転換を、洗礼を受けた者は与えられている。神様の大きな愛に応えようとすると、人々にキリストを述べ伝えるという行動をとらざるを得ないのである。
◇「和解」という言葉が出て来るが、神様と人間の双方が手を差し伸べ合ったわけではない。ただ、神様の恵みによって和解が与えられた。そして、この私たちを「和解の使者」として立ててくださった。使者と訳されている言葉は、いわば「天の国の大使」、「神の国の公式アンバサダー」である。身の回りに「神様と和解させていただきなさい。イエス様は素敵だよ。キリスト教は良いよ。」と宣伝する役割である。それにはまず、あなたが、イエス様と共に歩んできたことで幸せであることが大切である。あなたから幸せがにじみ出ていることが必要である。神様に立ち返ってほしい、というパウロの願い、イエス様の願い、神様が差し伸べられた和解の手に私たちが応えるのは、明日ではない、今日、今すぐ、なのである。
