2025/07/06 「どうして迫害されるのか」ヨハネによる福音書15:18~16:4a 牧師 古屋治雄

◇イエス様は預言者的な務めを全うされた。その頂点に十字架がある。イエス様は山上の説教で、8つの幸いを語られたが、「迫害される時、あなたがたは幸いである。」と言われる。これは弟子たちに限らない。ローマ帝国時代に限ったことでもない。イエス様に従う人すべてに起こる、避けがたいことなのである。どのような時代であってもイエス様に従う者には社会との摩擦や気まずさがある。そのことの中心には、イエス様が私たちを世から選び出してくださったという事実がある。このことは決定的であって、元に戻すことはできない。
◇しかしイエス様は、私たちが喜びに満たされること、私たちの苦しみは喜びに変えられること、私たちは終わりの日にイエス様に会い、喜びにあふれ、その喜びは永遠に続くことを、私たちに告げられる(15:11、16:20、16:22、16:33)。
◇今や世には、弁解の余地がない(22節)。神に背くこの世の罪が明らかになり、世を支配している罪の力の実体が暴露されたのである。ヨハネ福音書の1章に、世が言葉、つまりイエス様を認めようとも、受け入れようともしなかったことが記されている(10~11節)。しかし私たちは、主に召し出されて、闇から光へと移されている。
◇キリスト教の教義、教理は難しく見える。しかし決定的なことは、「主イエスが十字架にかかられたのは、私のせいだ」という自覚である。そう気づかされた人は恵みに捕らえられ、教会を通して主の死を告げ知らせる者とされる。
◇世の価値観に染まっている私たちは、そのことに気づくことができない。また世の法則は私たちに、自分の罪を見つめる時を与えず、突き進むことを要求し、罪を自覚する人を排除する。私たちは世に滅ぼされたかに見える。しかし、イエス様は復活して世の力を克服し、勝利された。滅びない確かな喜びを約束し、現実のものとしてくださったのである。