2025/06/22 「私につながっていなさい」ヨハネによる福音書 15:1~11 牧師 古屋 治雄

◇今日の15章を含む13章から17章まで、主イエスは一般の人々ではなく弟子たちに「ディダスカロス」(先生)として集中して語っている。「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない」(15:4後半)と主イエスは言われた。「私はまことのぶどうの木」 (15:1前半)、そして直前の14:6で「私は道であり、真理であり、命である」と言われた主イエスは、神様の恵みと真実を枝々である私たちに注いでくださっている。

◇続いて主イエスは父なる神を「私の父は農夫である」と言われた。イザヤ書5章では「愛する者は…良いぶどうを植えた。…彼は良いぶどうが実るのを待ち望んだ。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった」と語られる。本日の箇所の「私につながっていない人がいれば、枝のように投げ捨てられて枯れる」(15:6)という厳しい言葉の背景にはイスラエルが神様に背いた歴史が想起されている。その歴史の中から、主イエスは新しいイスラエルとして弟子たちを呼び集められた。

◇私たちはこの後弟子たちが主イエスを棄てて逃げ去ってしまうことを知っている。私たちも自分が「投げ捨てられる」者であることを想像する。しかし主イエスは弟子たちを「実を結ばない者」と断罪しているのではない。「これらのことを話したのは、私の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」(15:11)と言われているからである。「私につながっていなさい」と弟子たちを愛し通す決意を告げ、その先行の愛のゆえに、私たちもキリストの愛の内に留まる者とされている。それは16節で決定づけられている。「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって願うなら、父が何でも与えてくださるようにと、私があなたがたを任命したのである」。