◇私たち信仰者は、時折「道を逸れる」という経験をすることがある。今日の聖書箇所でパウロは、ガラテヤ教会の人々が「あの無力で貧弱なもろもろの霊力に逆戻り」していると、厳しく指摘している。「もろもろの霊力」という言葉は、元のギリシャ語では「ストイケイオン」という言葉で、その意味は「世界を支配する諸霊」と「この世界に見られる基本的な原理・原則、あるいは諸宗教の規範」とがある。
◇私たちは、この社会において一般的な決まり事や考え方、生き方の規範といったものに囲まれて生きている。場合によってそれらは、私たちを支配してキリストから引き離す霊的な力となるだろう。しかし9節においてパウロは、この「ストイケイオン」は
人間を奴隷にする力があると認めつつも、同時に「無力で貧弱」であるとも言っている。それはキリストの福音の力、罪と死を滅ぼす力とは比較にならないほど頼りないものであるから、私たちが仮に道を逸れたとしても、そこからキリストの福音の力に
よって再び取り戻されることが期待できるのである。
◇私自身、何度も道を逸れ、その度に歩むべき道へと戻していただいた。大学時代のある時、FEBCというキリスト教のラジオ番組に相談の手紙を書いた。「自分はもうキリスト者として生きていくことはできないと感じているが、どうすればいいか」といった内容だったと思う。忘れた頃に送られてきた、番組の録音CDに添えられていた聖書の御言葉「しかし、今は神を知っている、いやむしろ神から知られている」(新共同訳)が私の心にとどまり続けたことで、道を逸れたところにおいて神様に知られて
いることの恵みに改めて触れ、神様と教会に仕える道へと導かれ、神学校に入学する大きなきっかけとなったと言える。
◇皆さんも是非、神様のお導きに耳を澄ませてほしい。神様は思いがけないときに、思いもよらない方法で人を召し、御自身の栄光のために、私たちを清めて用いてくださるのだから。
