◇以前、マタイによる福音書の毒麦の譬え(13:24以下)を語らせていただいた。私たちの教会も良い麦と毒麦の混合体である。しかも現在は、良い麦と毒麦の区別がつかない。終末の時に初めて区別できるのである。「自分は毒麦なんじゃないか」と不安がる必要はないし、「自分はあんまり献金できない。奉仕できない。」と自分を裁く必要もないのである。
◇私たちが幸いな者とされているのは、キリストと結ばれていること、キリスト者同士が互いに結び合わされていること、そして霊的な祝福を受けていることによる。だから私たちは神様に深く感謝するのである。神様は人間を、愛する対象として、ご計画によって創造された。私たちは、その愛に反応して完全になるように選び出されている。イエス様は「私は道であり、命である」と言われた。イエス様という道を通ることで、神様のもとに行くことができ、神様の子として頂くことができる。私たちはこのことに感謝するのである。
◇私たちは罪に捕らえられて、自由を奪われた状態であったが、神様はイエス様の犠牲という尊い対価を払って、罪の縄目から解放してくださった。私たちはその恵みに感謝するのである。
◇いよいよ神様は、そのご計画の最終段階を実行に移される。天にも地にも御心が行われる時代が来る。御国が来る。その時、私たちはキリストの兄弟として天の国の財産分与にあずかる。天の国の共同統治者となる。すべてはイエス様への信仰によるのである。
◇「前もって」という言葉が繰り返されていると、私たちは身動きがとれないかのような印象を受けるが、そうではない。たとえて言えば、神様のところから降ろされた救出のロープを掴むか掴まないか、そこは選択できる。ロープを掴んだ人があとから振り返って見ると、神様のご計画に気づくのである。決定論ではない。
◇イエス様を信じた私たちには聖霊が与えられる。それは、神の所有物としての証印であり、天国の財産の一部を頂けるという証文でもある。私たちには神様のお名前が書いてある。神様の目的はただ、私たちが賛美と感謝をささげることなのである。