◇ペンテコステというと2章1~13節の記事が思い起こされる。12使徒が聖霊に満たされて、神の偉大な業を様々な外国語で語りだすという出来事として起こった。聞いた人それぞれがよく理解できる生まれ故郷の言葉で、神様が讃美されていることが、出身地、言葉の違いを超えて共有され、皆が神様を讃美する群れへと変えられたのである。
◇続いてペトロが使徒を代表して立ち上がる。明確な言葉で、「耳を傾けよ、酔っているのではない」と語りかける。主イエスが神のご支配を先取りして奇跡を行われたこと、それなのにユダヤ人は主イエスをはりつけにして殺してしまったことを語る。使徒たちは、主イエスの十字架の死を経験し、主イエスの復活を経験したにもかかわらず、信じ切ることができなかった。だが聖霊の注ぎを受けて、神様のご計画が貫かれていたことを確信することができたのである。この出来事によって弟子たちは「使徒」として、地の果てまで主イエスを宣べ伝える者とされたのである。
◇主イエスが天に昇られた後、使徒たちが中心になって、主イエスは復活して生きておられること、信じる者に聖霊が注がれていることを語り続ける。私たち教会にもその役割が託されている。しかし私たちは使徒たちの言葉をそのまま繰り返して語りさえすれば、主の証人になれるのではない。ペトロ自身の中に、主イエスを十字架に渡してしまった深い懺悔がある。復活の主が現れてそのペトロを変えてくださった実際の経験がある。
◇ペトロの証しを聞いた人々の中に悔い改めの心が生じ、その日、三千人もの人々が洗礼を受け、新しい教会の群れに加えられたと伝えられている(2:41。) 悔い改めの思いを神様の前に告白し、人々にキリストを証しする者の言葉は、キリストの復活の力に与っている。それゆえに語る者は死の滅びから既に引き上げられており、聞く者の内にも聖霊が働いて、共に神に赦され、新しく立ち上がる力を受けることができるのである。
◇私たちは滅ぶべき者であるが、救われ、聖霊を注がれ、栄光の道を歩む群れとされたのである。イエス様が共に働いてくださることを信じて、一日一日の業を進めよう。