◇復活後、イエス様は弟子たちと共に過ごしてくださり40日目に昇天された。弟子たちの目にはそのお姿が見えなくなったが、淋しくはなかった。十字架を前にして恐れと不安のため逃げ去った弟子たちだが、主の復活により変えられ、別の弁護者(聖霊)を遣わしてくださるとの約束を信じ、励ましあって生きることができたからである。その後10日目に、主の約束通り聖霊が注がれることになる。
◇使徒に繋がる教会につらなる私たちも、聖書のこの証言を聞いて、打ちひしがれていた滅びの身が新しい命に生きる者へと変えられる。聖霊なる神の力強い励ましに生きることができるのである。
◇洗足の出来事は、主が直接、手を触れて弟子たちを愛された徴である。洗われないなら、イエス様との関係がすべて灰燼に帰すのである。これに対して聖霊降臨は圧倒的な出来事である。恐れと不安の弟子たちは変えられ、復活の主の証人として遣わされた。いや、聖霊降臨より前に、すでに主の約束が弟子たちを変えていたのである。
◇「みなしご」とは、存在基盤が永続的に喪失されることである。私たちの危機である。しかしイエス様は一人ひとりを脱落させない。聖霊という人格的で霊的な力を注いで、私たちと深い繋がりを再構築してくださる。聖霊は目に見えないが今も働いておられる。その力は弱まらず、むしろ生き生きと、場所、場面、時代に限定されず働いておられる。
◇イエス様は繰り返し「互いに愛し合いなさい」と言われる。これは私たちに対する呼びかけである。諸教会も聖霊を頂いて外に向かって主を証しする役割を託されている。私たちの群れは決して閉じられてはいない。外に向かって開かれており、新しい人を迎え、交わりを深め、一つとされ、なお拡大していくのである。その出発点は、互いに愛し合うことである。信頼しあい、支えあうことである。私たちは「みなしご」ではなく「神の子」である。イエス様との結びから脱落してはいけない。恵みに応答して賜物を発揮し、神様の働きを担い、仕えよう。