◇主イエスに死が迫り、弟子たちにも不安と恐れが及ぶ中、主は「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には住まいがたくさんある……行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える」(1~3節)と言われた。主イエスは弟子たちに死が及ぼうとしているからこの話をされたのではない。私たちが地上で生きている今、父の家に招かれ、御子イエスも共におられる住まいがすでに与えられている。だから私たちは恵みの中に生かされてきたことを死んでも奪われない。
◇弟子のトマスは「父の家に用意されている住まい」に主イエスが連れて行くことが分からず「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません」(5節)と言った。フィリポも「主よ、私たちに御父をお示しください。そうすれば満足します」(8節)と願った。弟子たちもユダヤ人指導者たちも、神様を見るなど恐れ多い事だという常識に支配されていた。主イエスは御自分が父なる神様の許から遣わされて来た御子であることを繰り返し語ってきたが、その真意がユダヤ人指導者たちは勿論、弟子たちにも伝わっていない。
◇弟子たちも人々も主イエスが救世主として力を振うと期待した。今日の私たちも主イエスの奇蹟に注目しても、「今こそ、この世が裁かれる時。今こそ、この世の支配者が追放される」(12:31)と語る主イエスが、この世を覆っている闇と闘っていることに気付こうとしない。
◇主イエスは不安に陥った弟子たち、そして今を生きる私たちに神様の言葉に信頼する力が欠けていることを知っている。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」(6節)。私たちを神の恵みの中に生きる者としてくださる御子イエスの決意が表明されている。そのお力の中に生かされていることに気づくとき、私たちはすべてを委ね、地上の歩みを踏みしめていきたい。