◇私たちは、イエス様によって、また聖書の御言葉によって神様を知ることが可能になる。御言葉によって、神様が私たちを救ってくださることを知ることができる。私たちは、祈りによって神様との人格的な関係に入れられ、神様の救いの意思は変わらないことを知ることができる。神様を信じる、とは神様にすべてを委ねることである。「今、持っているものは、神様からいただいたものだ。だから感謝して大切に使わせていただこう。」と、向きを変えられて、神様中心に生活する者とされることである。
◇「永遠の命」をいただくために、私たちは「御心が行われますように」と祈り、御心を行う者にしていただくことが必要である。神様の御心は、たとえば、山上の説教に表れている。これらの戒めを知っている人は、御心を知る人であり、逆に、「神様を知ってる」と言いながら戒めを守ってない人は、神様を知らない人である。軽い過ちは赦されるが、御心を知っているのに破る罪は赦されない。私たちは、「罪を犯してしまうのではないか」と日々、おびえながら生活する必要はない。一方で、「何をやっても皆、赦される」という立場も神様の御心に適わない。だが、私たちは、わが身の内になお、罪が残存していることを自覚している。私たちがなすべきことは、自分自身の内にある罪を見つめることである。
◇例えて言えば、人間は皆、病気である。病気を癒すためには自分の現状を知り、お医者様と共に正しい対処法を検討し、アドバイスを受け、処方箋をもらわなければならない。今日の聖書箇所は、戒めについて語る。これが人生の処方箋である。戒めを守りなさい、というと、律法主義と受け取られかねないが、天国入り内定者である私たちは、神様の御心、神様の戒めを守ることができるのである。神様の愛で心を満たしていただいているならば、私たちは他者に対して親切にできる。寛容な態度で接することができる。「~しなければならない」という戒めではなくて「~することができる」という可能性を与えられているのである。
