◇主イエスによる洗足の出来事を、ヨハネによる福音書は、共観福音書の最後の晩餐の出来事の位置に置く。最後の晩餐では主イエスがご自分の命を捧げて、弟子たちに愛を注いでくださったのに対して、ヨハネによる福音書では徹底して仕えて、弟子たちと共にいて、支えてくださることによって愛を示されたのである。
◇イエス様が弟子たちの足を洗われたのは、互いに仕えあうことの模範を示されたのである。弟子同士、人間同士の横の関係だけではない、神様の徹底した愛のもとに築かれる関係なのである。神様からの愛の注ぎ、私たちの心への愛の刻みつけがなければ、つまり縦の関係なしには、人間同士の関係は脆く、崩れやすい。復活の後、弟子たちが立ち上がることができたのも、十字架で断絶されない神様の愛の注ぎを受けたからである。イエス様の愛は、聖餐という聖礼典の形で現在に至るまで継承されている。洗足は、聖礼典ではないが、受け継がれている。こうしてイエス様の愛が具体的な形で意味を持つものとなっている。
◇ヨハネ15章にあるように、私たちは幹なるイエス様に繋がることによって、愛されている者として交わりの中に入れられるのである。この交わりが弟子たちから信仰者全体へと広がっていくのである。この交わりの中では人間関係の上手、下手はない。つたなくても一歩を踏み出すなら、イエス様は受け入れてくださる。そこにはイエス様ご自身が働いてくださる。イエス様の力は、呼びかけ、変える力である。隣人に対する新しい関係が築かれる。私たちの愛ではなく、イエス様がその人に出会い、イエス様の愛がその人を動かすのである。
◇21章でイエス様はペトロに三度「私を愛しているか」とお尋ねになった。ペトロは「あなたがご存じです」と答える。それはイエス様への全面的な委ねである。ペトロは受け止められ、支えられている。私たちもまた、イエス様の愛と力をいただいて、仕えあい、交わり、再創造される者となるのである。
