◇イエス様のもとに悪霊に支配されて、見ることも、話すこともできない、重い障碍を負っている人が連れて来られる。イエス様は、目が見えるように、話ができるように、この人を癒される。これを見た群衆は皆、「これは普通の事ではない。人間の常識を超えることが起きている。神様からの力が働いているに違いない。もしかしたらこの人はメシアかもしれない。」と言い合う。
◇ところがイエス様を告発しようとしているファリサイ派の人々は、イエス様の力ある業を見ても、それを人間の常識の中に押し込もうとする。彼らは「悪霊を追い出そうとするなら、悪霊の頭ベルゼブルの力によるしかない!」と断言する。イエス様は、「どんな王国でも内部分裂して反目しあうなら、倒れるしかない。サタンが自分を追い出すなら、自己矛盾を起こして、その国は生き延びることはできない。」と言われる。
◇27節でイエス様は、「あなたがたの弟子たちは、いったい何の力で悪霊を追い出しているのか。」という問い立てをされる。悪霊を追い出すには、神の力が働くこと、聖霊の力が必要なことが、ルカによる福音書9:49や使徒言行録19:13によって証言されている。ファリサイ派の弟子たちが悪霊を追い出しているのなら、それは神の聖霊によっているのである。この事実が、ファリサイ派に対する強力な反対証拠になっている。
◇イエス様によって神様の力がすでにこの地上に表されている。天の国はすでに始まっているのである。しかし、イエス様に従うのか、それとも別の道を行くのか、イエス様と一緒に働くのか、その業を壊して邪魔するのかという選択には、中間はあり得ない。どちらかである。聖霊を冒涜する罪とは、神の業を拒否し、イエス様の邪魔をすることである。この罪だけは赦されない。しかし、他の具体的な誤りや罪は、悔い改めるなら赦してくださる。神様は罪の事実は知って、覚えておられるが、憐みのうちに「もう咎めない」と言ってくださるのである。
