2025/03/02 「死の壁を打ち破る復活の主」ヨハネによる福音書20:19~23 牧師 古屋 治雄

◇イエス様がエルサレムに入城されたのは、ユダヤ人にとって最も重要な過越祭の直前であった。直前の箇所でイエス様は、自らの使命を語っておられる。自らを「一粒の麦」にたとえた24節の御言葉は、イエス様のお働きの全てを表している。イエス様は目の前の人に語られているだけでなく、今日を生きるすべての人に語りかけておられる。国の指導者も、私たちも含まれている。

◇「人の子が栄光を受ける時が来た」(23節)とは、イエス様がまさにこの時のために来られたことを意味している。「世が裁かれる時、この世の支配者が追放される」(31節)という言葉は重要である。「世」という言葉はファリサイ派、律法学者、ローマ皇帝、領主ヘロデなど、特定の権力者を指していない。世の全ての人を含んでいるのである。 ◇支配者の追放は本当に起こるのか、私たちは疑問に思う。権力者が滅ぼされても次のものが立つ。正義と平和は現実には起きていない。私たちには失望感、絶望感があるのみである。ところがイエス様は「人の子は上げられなければならない」(34節)と言われる。この言葉は、人々には想像することさえできない。彼らは力を持った王的なメシアを期待していたからである。

◇常識的な読みをするならば、イエス様はこの世に裁かれて、十字架刑で殺されてしまった。イエス様は世の支配者に敗北してしまったのではないかと思われる。しかしイエス様が示しておられるのは、神の子自らが十字架に上げられ、死を遂げることによって、地上の支配者が追放されるということである。私たちはこの世の価値観にどっぷりと漬かっている。しかしイエス様がご自身のもとにすべての人を引き寄せてくださる(32節)という約束は私たちの救いである。神様の作品である私たちは、神様を見上げることができなくなっていたが、十字架の主がそれを可能にしてくださった。この受難節の日々を主の御苦しみを覚えて過ごし、2025年度の歩みに進んでいこう。