2025/02/23 「一粒の麦、地に落ちて死ななければ」ヨハネによる福音書書12:12~26 牧師 古屋 治雄

◇今朝は、教会暦より少し早く、ヨハネによる福音書が伝える棕櫚の主日の出来事が私たちに示されている。群衆の歓喜と大歓迎は詩編118編26節が元になっているが、そこでは「王」という言葉は出てこない。しかし今日の箇所で、群衆は主イエスを指して「イスラエルの王」と解釈していることがわかる。群衆はこれまでもしばしば主イエスが奇蹟を現された時、主イエスを王として担ぎ出そうしてきたが、それは主イエスの御心に沿うものではなかった。15節にゼカリヤ書9章9節が引かれ、主イエスがろばの子に乗って入城された様子が伝えられている。しかし、戦いではなく平和をもたらす王としての入城であることをヨハネは伝えている。主イエスがエルサレムに入ることは、群衆の身勝手な期待と歓喜、そして指導者たちの殺意が渦巻く中に入っていくことに他ならない。意外なのは、生粋のユダヤ人ではない人たちによって主イエスの本当の使命が明らかにされていることである。

◇24節にある「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ」とは、主イエスの十字架の死を意味している。ヨハネによる福音書では、十字架の死は個々の人間の罪の代償ではなく、私たちが豊かな実を結ぶことに直結していると語られている。種としては死んでも、麦が地に蒔かれて実を結ぶことを意味している。そして「あなたがたが私につながっており、私の言葉があなたがたの内にとどまっているならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、私の弟子となるなら、それによって、私の父は栄光をお受けになる」(15:7-8)とある。私たちは主イエスがろばに乗った王として入場された本当の意味を知り、御言葉に聞き従うことで、主イエスに連なる枝として多くの実りを持つことができる者へと招かれ、変えらるのである。主イエスの死が、そのことを成し遂げてくださっている。主イエスの新しい命に結ばれて、新年度に向かう私たちの歩みを成していきたい。