2023/05/07「理解することと信じること」 コリントの信徒への手紙一 15:1~11 牧師 古屋 治雄 

◇15章に至ってパウロは、十字架と復活の御言葉の重要性を私たちに思い出させる。復活はイエス様にだけ起きた出来事ではない。私たちもイエス様と共に復活させていただける、私たちが恵みによって死を乗り越えさせていただくことができる、そのことを信じることができるかどうか、そこが大切なのである。 

◇「十字架と復活は福音の中心である。」とか「主は私たちの罪のために十字架にかかってくださった」とかいう言葉は確かに真理である。しかし「イエス様は、他でもないこの私の罪のために十字架にかかってくださり、復活してくださった!」と自分ごととしてとらえなければ生きた真理にはならない。伝道は、このことが「あなたごと」であることを、いかにして伝えるか、気づいてもらうかにかかっている。一般化して理解されるだけで留まってはならないのである。そのためにパウロは自分のことを語る。キリストの教会を迫害していたこと。それゆえ使徒の中で最も小さく、使徒と呼ばれる価値などないこと。しかしその自分に、復活のイエス様が恵みにより現れてくださったことを、繰り返し証しするのである。 

◇教会外の人や信仰を持っていない人は、教会に対して問いを立てる。問いというものは常に、「~について」発せられる。それは理解を目的としている。私たちは、理解の先に信仰があるのではないことに気づかされる。思索、納得、理解で信仰が得られるのではない。聖霊の導きによらなければ誰も「イエスは主である」と言うことはできないのである。 

◇神学者フスト・ゴンザレスは、それが恋愛関係に似ていると語る。すでに豊かな関係に入れられている。だから知りたいと思うのだ。理解・納得から出発するのではなく、信頼から出発しよう。私に働く神の恵みを証ししよう。「語るあなたが信じていることが解るよ。」という言葉を聞く経験の積み重ねが「十字架と復活は他ならぬ私のためだった」という告白に繋がるのである。