2025/11/30「み心のままに」ルカによる福音書1:26~38 牧師 棚村惠子

◇マリアは、天使の祝福の言葉に戸惑う。マリアはヨセフと婚約していた。天使が告げたことは、個人の将来をはるかに超えた、民族全体に関することであった。ダビデ王朝の復興は悲願であり、王朝を継ぐ男子が生まれるという内容は喜ばしい知らせだが、その道具として自分が用いられるとすれば混乱する。なぜマリアが選ばれたのか。神の選びの理由は明かされない。ただ神がお入り用だったのである。旧約の預言者たちもそうして選ばれ、困難な役目につき、与えられた役割を果たすと去っていく。現代人にも神に呼ばれたとしか思えないことが起きる。ある職業に就いたのも、キリスト者となったのも、人間の主体性だけによるのではない。

◇37節と38節の間に、マリアの逡巡、葛藤があった。しかしついに「私は主の仕え女です。お言葉通り、この身になりますように。」という結論に至る。実はこの言葉の冒頭に、訳出されていないが「見よ」という言葉がある。「見てください。ここに私がおります。」と言うのである。マリアにも契約の民の一員としてのプライドと覚悟があり、役目を引き受ける覚悟ができていた。この姿は翼を張り、舞い上がろうとする鷲のようである。神は私たちに問われる。あなたは何者なのか、何のために生きるのかと。私たちキリスト者にとって洗礼は、キリストの血による契約の民の一員とされることである。それが「私は誰か」であり、生きる意味である。

◇イエスご自身もゲツセマネにおいて、「父よ、御心ならばこの杯を私から取り除けてください」と父なる神に切に祈られた。しかし最後には、「私の願いではなく、御心のままに」と覚悟を決められ、十字架へと進まれた。「御心のままに」と祈ることは容易なことではない。しかし、私たちはすでに神の御心によって選ばれ、洗礼の恵みにあずかり、罪を赦され、神の子とされている。常に私たちに先行する神の恵みと、御心への信頼をもって、躊躇することなく、天使の祝福をそのままに、ありがたく頂戴しよう。主を待ち望む者として、翼を張って、冒険的な信仰の旅へと共に歩み出そう。