2003年
◆11.30「永遠の命を得るために」イザヤ書55:1-5 ヨハネ6:27-35
◆11.23「真理とは何か」エレミヤ書23:1〜6, ヨハネ福音書18:33〜40
◆11.16「恵みの善い管理者」マラキ書3:19〜24, 第一ペトロ4:7〜11
◆11.09「祝福の源となれ」創世記12:1〜9, ローマ書4:13〜25
◆11.02「独り子をお与えになったほどに」民数記21:4〜9, ヨハネ福音書3:13〜21
◆10.26「いのちの始めと終わり」 創世記1:1-3,24-31
◆10.19「ギデオンの勇気」 士師記7:1〜7, マタイ福音書19:16〜22
◆10.12「┬柊招きに応える┬稗 イザヤ書6:1-8,ガラテヤ書1:11-17
◆10.05「小事に忠実な者は」アモス書8:4−7 ルカ福音書16:1−13
◆09.28「愛することは赦すこと」 ルカ福音書15:11-32
◆09.21「信仰と家族と将来」 サムエル下18:28-19:1 ルカによる福音書14:25-33
◆09.14「報いを望まで人に与えよ」 ルカ福音書14:7-14 フィリピ書2:1-11
◆09.07「何のため、誰のため」エゼキエル18:30-32 ローマ書14:1-9
◆08.31 「聞くに早く話すに遅く」 アモス書5:18−24 ヤコブの手紙1:19−27
◆08.24「神の子の声を聞く時」創世記42:29-38、ヨハネ福音書5:19-30
◆08.17「敵が兄弟になるまで祈る」哀歌3:25−36 マタイ福音書5:38−48
◆08.10「もう罪を犯してはいけない」創世記2:1-3、ヨハネ福音書5:1-18
◆08.03「してもらいたいと思うことを人にも」レビ記19:9−18ルカによる福音書6:27−36
◆07.27「愛されてこそ愛せる」エレミヤ書31:31-34、ルカ福音書7:36-50
◆07.20「キリストの出番」サムエル記下12:15b−23、ルカ福音書8:40−56
◆07.13「小さなものの一人まで」エゼキエル書34:11一22、マタイ福音書18:10−20
◆07.06「平和があるように」詩編122:8−9、第一コリント 3:1−7
◆06.29「はっきり言っておく」民数記21:4−9、ヨハネ福音書3:1-15
◆06.22「信じること」ヘブライ書11:1-7,「信じてふみだす」ヘブライ書11:8−16
◆06.15「その話に聞き入っていた」ルカ福音書10:38−42
◆06.08「聖霊による教会の誕生」創世記11:1−9、使徒言行録2:1−13
◆06.01「地の果てまで」マタイ28:16−20,?コリント9:19−23
◆05.25「新しい創造」イザヤ書40:25−31,コリント?5:17−21
◆05.18「真実のよそおい」申命記7:6−11,ガラテヤ書3:26−4:7
◆05.11「朽ちる食べ物のためではなく」出エジプト記16:4−18,ヨハネ福音書6:34−40
◆05.04「心の目を開いて」イザヤ書51:1−6、ルカ福音書24:36−49
◆04.27「主と共に歩み」列王記下7:1−16、ルカ福音書24:13−35
◆04.20「よみがえりを信ず」ルカ福音書24:1−12、第1コリント15:12−20
◆04.13「ロバに乗る王」イザヤ書53:1−5、ルカ福音書19:28−36
◆04.06「常に主を覚えてあなたの道を歩け」箴言3:1−12、ヨハネ14:1-7
◆03.30「十字架の言葉は」エレミヤ9:22−25、第1コリント1:18-31
◆03.23「わたしの十字架」イザヤ書63:7-14、ルカ福音書9:18-27
◆03.16「天からのしるし」出エジプト記8:12-15、ルカ福音書11:14-26
◆03.09「本国は天」イザヤ書25:1-9、フィリピ書3:17-4:1
◆03.02「五つのパンと二匹の魚」イザヤ書41:8-16、ルカ福音書9:10-17
◆02.23「新しい革袋に」イザヤ書58:3-8、ルカ福音書5:33-39
◆0216「聞く耳のある者は」ルカ福音書8:4-15、エゼキエル33:30-33
◆02.09「神の民」ヨシュア記1:1-9、第1ペトロ2:1-10
◆02.02「主よ、献げます」ハガイ書2:1-9、ルカ福音書21:1-9
◆01.26「逃れる道をも備えてくださる」民数記9:15-23、第1コリント10:1-13
◆01.19「しかし、お言葉ですから」申命記7:6-11、ルカ福音書5:1-11
◆01.12「罪人を救うために世に来られた」第一テモテ1:12-17、イザヤ書49:1-6
◆01.05「心を新たに」箴言3:1-12、ローマ12:1-8
2002年
◆12.29「この目であなたの救いを」イザヤ書40:1-5,ルカ福音書2:21-40
◆12.22「ここに愛がある」イザヤ書45:22−25,ヨハネ福音書1:1−14
◆12.15「先駆者の使命」ルカ福音書1:5−25,第1ペトロ2:1−10
◆12.08「神に立ち帰る時」ルカ福音書4:14−21,イザヤ書55:1-11
◆12.01「夜明けは近い」エレミヤ書33:14−16,ルカ福音書21:25−36
◆11.24「主の言葉が臨んだ」エレミヤ書1:4−10,マタイ福音書28:16−20
◆11.17「死んだ者の神ではない」エレミヤ書31:31-34,ルカ福音書20:27−40
◆11.10「笑わずにいられない」創世記8:1-15,ローマ書9:6−12
◆11.03「最初の罪・最後の赦し」創世記3:1-19,ローマ書5:12-21
◆10.27「神の計りごと」ヨブ記38:1-18,ルカ福音書12:13-31
◆10.20「なすべきことはただ一つ」サムエル記下6:12-23、フィリピ書3:12-26
◆10.13「わたしは何者か」出エジプト記3:1-12
◆10.06「人間に従うより神に」ダニエル書3:13-27、使徒言行録5:27-42
2001年
2000年
◆1月〜3月 ◆4月〜6月 ◆7月〜9月 ◆10月〜12月
1999年
◆1月〜3月 ◆4月〜6月 ◆7月〜9月 ◆10月〜12月
1998年
◆1月〜3月 ◆4月〜6月 ◆7月〜9月 ◆10月〜12月
1997年
◆1月〜3月 ◆4月〜6月 ◆7月〜9月 ◆10月〜12月
1996年
◆9月〜12月
◆2003.11.30 待降節第1主日
「永遠の命を得るために」 イザヤ書55:1−5、ヨハネ6:27−35
大村 栄 牧師
◇ヨハネ福音書6章は「5000人に食べ物を与える」記事から始まる。あの出来事に感動した人々は、ガリラヤ湖対岸の町まで主イエスを追うが、主は彼らに、「26:あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と指摘し、「27:いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」と告げられる。これを目指し、求めて生きることが、キリストを通して神から与えられる人生の新しい意義であり、喜びである。
◇その価値に気づいた群衆は、それを得るためには「28:何をしたらよいでしょうか」と問う。「永遠の命」は何かの行為に対する報酬だと考えている。しかし主は行為に対する報酬でなく、「29:神がお遣わしになった者を信じること」のみが必要と告げる。すると群衆はキリストを信じるための保証を求める。「31:わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました」。出エジプトの際にモーセを通じて与えられた食物、あれと同じようなしるしを見せてくれ、そうしたらあなたを信じようと言う。
◇主の答えは「35:わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。これ以上のしるしはない。主を信じる者の命を、神は「飢えない、乾かない」ものに変えて下さる。「27:永遠の命」は終わりの日の希望であると同時に、今ここで信じる者に実現する恵みである。
◇聖書はこの福音を私たちに語る書物である。5:39「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」。聖書は読んだら終わりではない。薬の効能書きと似ていて、読んだらそれを信じて飲む決断が不可欠。聖書は福音を信じて生きることを私たちに求める。
◇キリストに表面的な豊かさだけを期待した群衆は、やがて「41:つぶやき始め」、それまで「群衆、人々」と呼ばれていた彼らは、「ユダヤ人」と呼ばれるようになる。ヨハネで「ユダヤ人」と言えばイエスを十字架に付けた人々のこと。自分を変えないで、キリストを評価しようとする人は、彼を否定し十字架に付ける者となるのだ。主イエスは「永遠の命に至る食べ物」であるならば素直にこれを飲み込もうではないか。それを象徴するのが聖餐であり、そこへの招きに応えるのが洗礼である。復活の主によって霊肉共に養われるものでありたい。
◆2003.11.23 降誕前第5主日
「真理とは何か」 エレミヤ書23:1−6、 ヨハネ福音書18:33−40
大村 栄 牧師
◇ポンテオ・ピラトによるキリスト尋問の場面。ピラトの最大の関心はイエスが「33:ユダヤ人の王なのか」、つまり反ローマ抵抗勢力のリーダーなのかという点。しかし主イエスは「36:わたしの国は、この世には属していない」と答える。彼の属する国は地上の領域ではなく、神の領域に属する世界である。まったく土俵が違う。しかしピラトは理解できず、「37:それでは、やはり王なのか」と問う。どんな国であろうと、そこの最高権力者であるなら、それなりの責任を要求するのがローマ的判断である。
◇ローマ的な偶像崇拝の世界では、王は神をも自由に扱うほどの存在と考えられていたが、ヘブライズムの絶対神信仰においては、王は常に神の前でのあり方を問われる。王は神への畏れをもって民に奉仕する。それを怠るならば、「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」(エレミヤ23:1)との裁きを受ける。「イエスは良い羊飼い」(ヨハネ10:7以下)を連想する。王と民の関係は、羊のために命を捨てる羊飼いと羊の関係を反映するものでなくてはならない。そしてそれは一つの王国における王と民でなく、すべての人間において実現されるべき、すべての人を根底で支える愛の関係である。キリストはその愛を実行するために来た。「その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)神がそれを実現せしめたのである。
◇この愛の支配こそが聖書全巻の示す「真理」である。「37:わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきた」。しかしピラトは最後まで理解せず、「38:真理とは何か」と問う。彼の求める「真理」は合理的な判断に立って、「何か」と問えるようなものに過ぎない。昔も今も、人は真理を悟ることができれば賢くなり、様々な不自由から解放されると考えている。そういう便利な理論や方法として「真理」を求めている。だからピラトは「真理とは何か」と問うたが、答えなどあるまいとその場を去ってしまった。彼は自分の目の前にいるその人が「真理」そのものであることに気付かなかったのだ。
◇「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)。主イエスご自身が生きた真理である。私たちは主イエスとの交わりを通して、神の愛と、それによる自由を生きる者となるように招かれている。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:31-32)。
◆2003.11.16 降誕前第6主日
「恵みの善い管理者」 マラキ書3:19〜24 第一ペトロ4:7〜11
相澤眞喜先生
◇キリスト教信仰は、終末信仰である。4節の「万物の終わりが迫っています」というのがそれである。この言葉だけ聞くと奇異に聞えるが、これは万物には終わりがあるということである。神はこの世界の自然も人間もすべてを創造し、支配されておられる。神が初められたのだから、終わりの時に完成してくださるという信仰である。?ペトロ1:5に「あなたがたは、終わりの時に現わされるように準備されている報いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています」とあるように、わたしたちは終わりの時に向って生きているのである.
◇終末に向って生きるわたしたちの信仰生活はどのようにあるべきか.まず第一に基本的な在り方として、「思慮深くふるまい身を慎む」ということである.健全な考えを持ち、心をしっかりとまとめることである.いつも目覚めた思いを持って判断を正しくすることである.それには謙遜でなければならない。神に対して謙遜になる時、人に対しても謙遜になり、そこから真の冷静さと敏感さが生まれるのである。「よく祈る」ことである.M.ルターは「祈りに対して裸になれ」と言っている.素直に自分の思を隠さず大胆に祈ることである。一切を神に委ねて絶えず祈ることである。「心を込めて愛し合うこと」、これはイエス・キリストの十字架の愛に生かされなければ成し得ぬことである.
◇第二に具体的な奉仕の業について教えている。10節に「あなたがたは、それぞれ賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」とある.善い管理者とは、忠実であること、つまり賜物を他者のために、神のために生かして用いることである。また各自に賜物が与えられているのは全体の益になるためである (?コリント12:4−8)。
◇わたしたちは、神からいただいた恵みを善く管理し奉仕する目的は、「すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるため」である.神の栄光のために、祈りつつ歩んで行きたい.
◆2003.11.09 降誕前第7主日
「祝福の源となれ」 創世記12:1〜9, ローマ書4:13〜25</A>数記21:4〜9 ヨハネ福音書3:13〜21
牧師 大村 栄
◇我々の引っ越しは各自の都合によるが、アブラム(後のアブラハム)は神がすべてを備えて下さると信じて「4:主の言葉に従って旅立った」。引っ越しがなくても人生は旅だ。最終目的地は天の故郷。「主の言葉に従って」歩みたい。アブラムは「5:蓄えた財産をすべて携え」て出発した。後戻りはしないという覚悟が現れている。信じて飛び込んでいくならば、ヨチヨチ歩きのおさなごを待つ母のように、神は必ず手を添えて支えて下さる。甥のロトも同行するが、これが後にトラブルのもととなる。しかしそれによってアブラムは成長させられた。私たちの旅の重荷も同様であろう。
◇たどり着いた目的地には、「6:カナン人が住んでいた」。神はアブラムに、先住民と戦って土地を奪い取れと言うのか。「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」(マタイ福音書5:5)。最終的に土地を得るのは、戦って取る人々ではなく、柔和で謙遜な人々である。自分が勝つことより、神が最善を為して下さると信じる信仰が人を柔和にさせる。「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです」(ローマ4:13)。
◇結局イスラエルはカナン人と戦って彼らを追い出したのではない。最後まで共存関係を持ち続けた。イスラエル人は彼らから農耕技術を学んだが、同時に偶像礼拝の影響を受け、預言者たちはその排除に力を尽くし、神の言葉を求めて戦かった。望まざる共存だったけれど、ロトの同行のように、重荷と思える状況が成長の糧となった。思いのままに自分の周辺を整えたい願望を、どこまで抑制できるかが問われる。
◇アブラムは目的地に着いて、まず「8:祭壇を築き、主の御名を呼んだ」。引っ越したばかりで課題や不安は多い。しかし、神を呼ぶ祈りと礼拝は、彼にとって「すべきこと」ではなく、「せずにおれないこと」だった。人生はそれぞれの重荷をかかえた旅だが、最後の天国の故郷を目指して、新しい出発を繰り返していく。その時々に、私たちは「主の御名を呼ぶ」礼拝と祈りを繰り返すことによって支えられていく。
◇このような生き方をする者に向かって、神は言われる。「3:地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」。信仰者の旅は、自分を豊かにする旅である以上に、世界の「祝福の源」となる。旅を続けながら世界に祝福をもたらす源となること、これが私たち教会に召された者たちに託されている使命であり、喜びである。
◆2003.11.02 降誕前第8主日
「独り子をお与えになったほどに」 民数記21:4〜9 ヨハネ福音書3:13〜21
牧師 大村 栄
◇先週の10月31日(金)は宗教改革記念日だった。1517年のこの日、ドイツのウィッテンベルクで、マルチン┬疋ルターが教会の扉に95ケ条の提題を掲げ、当時ローマ・カトリック教会で行われていた免罪符の販売や煉獄の教えを批判した。これが宗教改革の引き金となったのである。煉獄は死者が罪の償いを果たすまで置かれて苦しむ場所。教会は、これが地上の家族の執り成しによって代償されると教えた。仏教の「追善供養」に似ている。「免罪符を買えば、死んだおじいさんは、煉獄から天国に席を変えられる」と言って資金集めをしたのだ。
◇「わたしの父の家には住む所がたくさんある。わたしがそれを用意しに行くのだから」(ヨハネ14:2)と告げる「聖書のみ」を規準とし、行為ではなくただ「信仰のみ」によって救われることを信じる。その二点に宗教改革の精神は集約できる。
◇教会では死者のために供養はしないけれど記念式は行う。そして「キリストの記念」(?コリント11:24)としてパンとぶどう酒を分け合う聖餐式こそが、キリストにおいて眠ったすべての人々のための、最善の記念式である。「15:信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るため」に十字架に死んだ主イエスを仰ぎ見るのだ。
◇「16:神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。ルターが「この一節だけで小さな聖書である」と言った言葉だが、私たちは独り子を賜うた神の痛みにどれだけ思いを致しているだろうか。
◇「阿佐ヶ谷教会の歴史を生きた人々?」に掲載されている後藤豊という方は、優秀な学徒だったが結核に冒され、壮絶な病いとの戦いの末、1950(昭和25)年に30才の若さで逝去された。母の後藤文子さんが後に書いた本『暁の翼をかって』を読むと、彼女は愛するわが子を失うという厳しい体験を通して、父なる神が「その独り子をお与えになったほどに」世を愛されたことの重さを、身をもって知ったのだと分かる。
◇しかしそういう体験や理解はめったにあるものではない。人生に起こる苦難の意味も分からないことばかりだ。ヨブ記は「苦難の意味」を知るということをテーマとしている。しかしその主題は「分からない」ということだ。分からなくても、独り子をお与えになったほどに世を愛された神が、必ずや最善を成して下さる。その福音を告げる「聖書のみ」を信じる「信仰のみ」に生きることが宗教改革の原点なのである。
◆2003.10.26 在天会員記念礼拝
「いのちの始めと終わり」 創世記 1:1-3,24-31
牧師 大村 栄
◇今日から降誕前節、別名契約節。「キリストの来臨と生涯は、歴史の中途からスタートしたというよりも、世の初めからの神様の救いの歴史、神が人々と共に生きようとされる契約の歴史が展開していて、時満ちてイエス・キリストが来られたのだということを心に留める。それが契約節であります」(大宮溥先生説教集『希望の旅』)。
◇その歴史は神による始めから、神による終わりに向かって、一本の直線のように進む。聖書の教えは、創世記冒頭に「初めに、神は天地を創造された」があって、巻末にヨハネ黙示録の最後、「アーメン、主イエスよ、来てください」があるように、神の創造に始まり、キリストの再臨と神による完成に終わる歴史。その間に私たちの人生があって、今日という日は一度しかない。
◇この直線的な時間の見方は、羊を連れて移動する遊牧民の生き方から来た。草地を求めて移動する彼らには、いつか草がなくなるかも知れないという危機感がある。それに対して、農耕民族の歴史観は円環的だ。春に蒔いて夏に成長し、秋実って冬には枯れる。しかしまた春になれば芽が出てくる。そこから来る歴史観は円環的な繰り返し。終わってもまた新しい出発がある。その究極が仏教の輪廻転生の教えだ。
◇しかし聖書が言うのは、単に繰り返しがきかないということではない。大事なのは、神の意志による創造が歴史の始まりだということ。すべてのものは決して偶然に、意味もなく存在するのではない。「31:神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」。神が望まれたから世界が始まった。そしてそれは神の満足されるものだったのだ。
◇しかしその後の人間は、残念ながら神の意志に背く「罪の歴史」を生きてきた。世界と社会の混乱を見るに付け、このまま世は終わるのだろうかと思ったりする。しかし、神の創造の意志が愛と喜びであったなら、必ず歴史はその方向に向かって進んでいく。聖書の言う「終末」は世の破滅を指すのではない。本来の「極めて良かった」状態が回復され、神の意志が成就する形で、歴史がその目標に到達することだ。
◇そのような希望に向かって、私たちの人生は意味ある日々を加えていく。今日は在天会員記念礼拝。名簿には300人を超える方々の名前がある。一人一人に与えられる一度限りの人生、完成に向かう直線的な歴史の中の意義ある一部分を、この方たちは生き切った。私たちもまた神の前に感謝をもって、これを生きていくのである。
◆2003.10.19 全家族礼拝
「ギデオンの勇気」 士師記7:1〜7 マタイ福音書19:16〜22
牧師 大村 栄
◇「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(ネヘミヤ8:10)。どんな時も一緒に礼拝すると、落ち着いて力がわいてくる。その力は、みんなで一緒に生きる力、神さまを信じる力、人を愛する力だ。
◇ギデオンはミディアン人との戦いに際して力を求めていた。この力は礼拝で与えられる力とは違う。大勢の仲間を集めて自信を付けて安心したい、そういう力である。しかし主は彼に言われた、「2:あなたの率いる民は多すぎる」、だから「3:恐れおののいている者」は帰らせよ。そのようにすると、「3:二万二千人が帰り、一万人が残った」。三分の一に減ってしまった。
◇ところが神は「4:民はまだ多すぎる」、エン・ハロドの水辺で「彼らをえり分ける」と言われる。水辺で「5:犬のように舌で水をなめる者」は帰らされ、「6:水を手にすくってすすった」者だけが選ばれる。それは1万人のうちわずか300人。すなわち3パーセント。しかし主はギデオンに、この「7:三百人をもって、わたしはあなたたちを救」うと言われた。そしてその通りになった。世界中の人々に聖書を配る活動を行っている国際ギデオン協会は、協力者を募る100通の手紙に応えたわずか3人から始まった(これも3パーセント)。今では全世界で聖書配付の活動がなされている。
◇100人を期待したのに3人。1万人いて心強いと思っていたのに300人に減らされる。私たちが増えること、増やすことを望む時に、神さまは減らすことを求められる。そうやって自分自身に対する信頼や自尊心を打ち砕かれる。さらには地上のいかなる力も実は信頼に値しないものであり、神にのみ頼るべきことを教えられるのだ。
◇一人の金持ちの青年がイエスに、「先生、永遠の命(神さまから頂く最高の宝物)を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」(マタイ19:16)と尋ねた。あらゆる律法の戒めは守ってきた。この上さらに何をすれば、と問う青年に対して、主イエスは言われた。「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる」。主は青年の自信のもといである財産を手離せと命じられる。自分の持ち物を減らしていけばいくほど、天に宝を積むことになるのだ。
◇ギデオンは去っていく兵士たちの後ろ姿を見ながら、神を信頼せずにおれない心境に追いこまれていっただろう。地上の望みが消えるたびに、神への信頼と信仰が強められ、深められていく。ここにこそ「ギデオンの勇気」、本物の勇気がある。
◆2003.10.12
「招きに応える」 イザヤ書6:1-8 ガラテヤ書1:11-17
船本 弘毅 先生
◇最近┬匹ハイワイ(ハイ┬疋スクールYMCA)運動の大会に行った┬鼻私は1953年に高校を卒業したが┬匹当時はキリスト教主義の高校だけでなく┬匹公立学校でもハイワイ運動が盛んだった┬鼻戦後の混乱の中でハイワイに連なり┬匹そこで作られた信仰の交わりの中で主の召しを考える機会が与えられた┬鼻
◇パウロは┬匹召された時のことを┬匹私はキリストに出会い捉えられ┬匹何の準備もなく努力も決心もなく┬匹主が召して捉えてくださったと語る┬鼻人生は出会いだ┬鼻マルティン┬疋ブーバーは┬匹 『出会い』という書物の中で、書物との出会い┬匹人間との出会いについて次のように言う┬鼻?ぢ自分は若い日には┬匹良い書物との出会いと人間との出会いのどちらかを選べと言われたら┬匹良い書物との出会いの方を選んだが┬匹歳を経て┬匹今は人間との出会いを選ぶ┬鼻人との出会いで人生が深く豊かなものになったからである┬稗と┬鼻しかしパウロとキリストの出会いはそのような出会いとも異なる┬鼻母の胎内で選びは始まっていたという語り方は┬匹パウロの召しが人間によるものでなく神によるものだということだ。
◇ルカ福音書14章には┬匹宴会に招かれた人 が次々と一様にその招きを断るたとえがあ る┬鼻宴会の招きを断る理由は┬匹畑を買う┬匹
結婚する等人生の一大事で┬匹正当な理由で あり生活がかかっている┬鼻しかし┬匹自分が自分の生活を安定させ┬匹持ち物を増やすなど┬匹自分のことを優先している限り┬匹神の招きに応じることはできない┬鼻
◇E((I%ブルンナーは┬柊イエスのたとえ話┬稗の中で┬匹私達が最初に手をつけるのでもなく┬匹私達が中心でもなく┬匹神が与え┬匹神が何事かをして下さることを聖書は福音として語るという┬鼻またテイリッヒは┬匹信仰は受容の受容だと言う┬鼻神によって受け入れられていることを私達は感謝を持って受け入れることが招きに応じることだと言う┬鼻
◇東洋英和は┬匹1884年カナダ┬疋メソジストの婦人宣教師カートメル先生が来日し┬匹2名の生徒に教えることから始まった┬鼻先生は4年半で病を得て帰国されたが┬匹?ぢ私をお遣わし下さい┬稗という神の召しに応えようとする祈りから始まったことは事実┬鼻最近┬匹聖ステパノ学園の50周年記念式典でで祝辞を述べる機会が与えられた┬鼻この学校は┬匹沢田美喜が始めたエリザベス┬疋サンダースホームの子供達が学齢期になった時に小学校を造ったことから始まる┬鼻
神がまず人を愛し┬匹招いてくださる┬匹この神の備えて下さった道に私をお遣わし下さいと祈ることが招きに応じることだ┬鼻
◆2003.10.05 世界聖餐日・世界宣教の日礼拝
「小事に忠実な者は」 アモス書8:4−7 ルカ福音書16:1−13
牧師 大村 栄
◇今日のような難解なたとえは、伝道に派遣する弟子たちに、聞いてじっくり考えさせ、悟って立ち上がらせるために語られたのだろう。「管理人」は遠くにいる主人の財産を管理運用する責任があった。不正が発覚して免職されそうになると、主人に負債を負う人々の負債を軽減してやる。自己保身のために、主人の財産を盗用したのだ。しかし何と主人はこの管理人の「8:抜け目のないやり方をほめた」。一体なぜか。
◇「9:不正にまみれた富(「この世の富」と言い換えたい)で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」。「金がなくなったとき」は、使い果たした時ではなく、金が無用になくなる時。すなわち個人レベルでは死、歴史全体では終末。その時に「永遠の住まい(天国)に迎え入れてもらえる」ための保証となる友達がありえる。「この世の富」を用い、すべてを用いてそういう友達を作りなさいということ。その友とはイエス・キリストだ。
◇キリストを友とする方法はマタイ25章の最後に記される。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。今日のテキストで言い換えると、「10:ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」。「最も小さい者の一人」に誠実に接し、「ごく小さな事に忠実」な人が「大きな事」、すなわち世界に平和を造り出す人となるのだ。今日は「世界宣教の日」。日本基督教団から世界各地に派遣されている宣教師たちは、その土地と人々を愛し、そこに注がれている神の恵みを宣べ伝え、分かち合っている。「ごく小さなことに忠実」であろうとしているのだ。
◇「11:不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。12:また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか」。忠実であるべき対象として、「不正にまみれた富(この世の富)」と「他人のもの」が並置される。このことから示されるのは、キリスト者にとってこの世の富は「他人の」、仮のものでしかない。しかしそれらの管理や活用に忠実であるならば、やがて次の段階として、「11:あなたがたに本当に価値あるものを任せる」と言われる。それは永遠に続く真理である。そしてそれらが「12:あなたがたのもの」として与えられることを、私たちは最大の望みとするのだ。
◆2003.09.28
「愛することは赦すこと」 ルカ福音書15:11-32
牧師 大村 栄 <伝道礼拝>
◇松原郁哉兄(神奈川歯科大学講師)の証し「与えられた信仰」を聞いた。信仰の証しとは、客観的・科学的な証明と違う。科学では証明できない何かの促し、つまりは神のご計画であったと信じるほかない出来事を、感謝の内に語るのが証しであり、私たちは今日それを耳にした。ひとりの人の人生に起こった、そして起こっている神の愛の出来事を間近に見たのである。
◇レンブラントの絵に『放蕩息子の帰宅』がある。父の前にひざまずく息子を、父がマントで覆っている。「家庭とは、欠点や弱さが、愛情というマントの下に覆われる、地上でただ一つの場所」という言葉がある。息子は今や、彼自身の本来の居場所がある家庭、愛に満ちたマイホームに帰ってきた。父は息子の罪の告白を、最後まで言わせない内に「一番良い服」や「指輪」などを調えさせる。これらは彼が正当な家族であり、ここに彼の居場所があることを証明するものだ。罪の告白は赦しの前提条件ではなく、赦しと愛への応答である。
◇こうして与えられるまことの居場所とは、松原兄が求道生活の末に発見した一つのあり方が言い当てている。「高校以来、自分を自分で支えようとしてきたが、自分で支えなくても大丈夫なのだと知った」。大宮溥先生がよく青年たちに言われたのは、「自律」と「他律」を超えた先に「神律」という世界があるということ。自分を自分で支えなくても、神の支えの中に自分らしく生きる場、居場所がある。そしてこの居場所は、地上のいのちの先にも存在する。「家には一人を減じたり。さはれ天に一人を増しぬ。清められ救はれ全うせられしもの一人を。…主イエスよ、天の家庭に君と共に坐すべき席を、我らすべてにも与へたまえ」(ストック女史、植村正久訳)。
◇もう一人の登場人物である兄息子は、もう一人の放蕩息子だ。父を裏切って勝手に飛び出した弟が、赦されて再び迎えられることなどあってはならない。弟を赦せない、愛せない、そういう心のとげを抱えて家の外に立ち続ける兄に対し、父は、弟に走り寄ったのと同様、外に出てきて「子よ」と呼びかける。赦されるはずのない人間(弟)と、人を赦せない人間(兄)が、等しく神に赦される。赦しとは愛である。愛されることは赦されることだ。
◇私たちは教会の礼拝において繰り返し神の愛に触れ、この愛に包まれている自分を知り、自分で自分を支えなくても良い、神に委ねて生きることのできる本来の居場所、生死を超えて存在する真の居場所を取り戻していくのである。
◆2003.09.21 聖霊降臨節第16主日
「信仰と家族と将来」 サムエル下18:28-19:1 ルカによる福音書14:25-33
牧師 大村 栄
◇「弟子の条件」として、「26:父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」。また、「33:自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」と主は言われる。ここで言う家族を「捨てる」とは手放すことではない。一度人間的な関係を捨てて、主の前に新たな人格的関係を結ぶということである。
◇「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」(マタイ13:44)。持ち物を売り払う、つまり大事なものを捨てることができるのは、それよりもはるかに優るものを発見したからだ。「天国」はそれほどに価値がある。新刊の『ケセン(気仙沼)語訳聖書』(山浦玄嗣著)は、「天国」を「神様のお取り仕切り」と訳す。神の取りしきる世界を生きられるなら、それは他の何ものにも優る。第一のものの敵は第二のものと言う。第一も第二も大事と思う時、両者は敵対する。第一・第二の序列を区別できるなら、両者は生かし合う。大切なもの(家族)を大切にするために、もっと大切なものの存在を覚えたい。
◇そしてこのもっと大切なものの存在は、覚悟して心に刻んでおく必要がある。究極の選択を迫られる場面はめったにないけれど、万一その時が来てから、まだ迷っているようではいけない。「28:塔を建てようとするとき」の費用計算と、「31:戦いに行こうとするとき」の作戦計画とは、そういう覚悟を迫るたとえである。そのうち何とかなるだろうと、あいまいな態度でいると、すべてを失うことになる。信仰生活にはある種の決断と緊張が必要である。
◇ダビデはそういう緊張感に欠けたために家族における悲劇を体験した人だった。彼の子供たちの間には王位継承を巡る抗争があった。息子の一人アブサロムは異母兄を殺した罪で追放されるが、父ダビデは叱るわけでも、赦すわけでもない。やがて息子は不満分子を集結して反乱軍を組織するが、鎮圧されて殺される。その報告を聞いたダビデは「身を震わせ、城門の上の部屋に上って泣いた」。この悲劇を語る文章には神様が登場しない。すなわち神への祈りが欠如しているのだ。「祈り」は神にすべてを委ねること。ケセン語訳聖書で言う、「神様のお取り仕切り」に任せること。それこそが最大の「弟子の条件」であり、信仰生活に必要な覚悟なのである。
◆2003.09.14 聖霊降臨節第15主日
「報いを望まで人に与えよ」 ルカ福音書14:7-14 フィリピ書2:1-11
牧師 大村 栄
◇主イエスは宴会を例にして二つの譬えを語る。まずは祝いの席に招かれた人のたとえ(7-11節)。上座を占める高慢と末席に着く謙遜。高いところも低いところも、自分がどういう地位や立場を取るべきかは自分で作り上げるのではなく、ただ与えられたままに受け取るべきである。ふさわしい地位や名誉を正当に得る方法はただ、無欲に、謙遜に仕える時に与えられる。
◇そういう謙遜を身につけるためには、完全なものとの比較をすることである。それによって自分のやっていることの拙さがわかる。夏の家族キャンプでは、富士サーキットでプロドライバーの運転するレーシングカーに乗せてもらった。運転とはこうすることかと体感した。私たちの人生そのものを、最も完全な、主イエスの人生と比較してみたらどうか。この方の生涯と、自分の自己中心な生き方を比較してみるなら、私たちのおごりは失せるだろう。
◇「11:だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。単なる謙譲の美徳を奨励する教訓ではない。膝まずいて弟子の足を洗い、世の人々の罪を肩代りして死なれた主イエスの十字架への道、そこに徹底した「へりくだり」の生き方がある。「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:8)。そしてこの一番低い席に座ったために、上席を与えられたのが主イエスだった。私たちの身につけるべき謙遜は、このキリストの姿に信仰によって結び合う時に、賜物として与えられるのである。
◇続いて後半(12-14節)のたとえは、招く側の人への勧め。食事に招くとは、愛を行なうことである。しかしその相手が友人や身内の者、近所の有力者に限られているとすれば、愛の狭さを示すことになる。主イエスが私たちに期待する愛とは、返礼などありえないような関係の中でこそ行なわれるものである。例示される「貧しい人、云々」は当時の社会生活から除外される人々だった。そのような人々にこそ愛を注げと言われる。それはそういう人たちの必要に応えて、援助を与えよというのではない。彼らを食卓に招けと言われる。
◇それは天国の宴席を目指す主の食卓である。そこに私たちも、共に一つのテーブルに座して食べる。この宴席は聖餐の食卓を中心とする礼拝そのものにほかならない。ここへの招きが、愛を行うことだ。礼拝に招くということは、尊い愛の業であり、伝道は愛の業である。本人の拒絶という壁に直面しても、繰り返し愛の業に励もう。
◆2003.09.07 聖霊降臨節第14主日 <振起日礼拝>
「何のため、誰のため」 エゼキエル18:30-32 ローマ書14:1-9
牧師 大村 栄
◇「1:信仰の弱い者を受け入れなさい」。ここで言う信仰の弱さとは、信仰の結果である生活のあり方、たとえば食べる物や日の吉凶などについて、「こうでなくてはならない」と考え、そうできない時に悩むこと。もっと大らかに生きる「信仰強い者」が弱い者を「受け入れなさい」というのは、単にベテランは新入りに配慮せよということではない。自分と異なるものは切り捨てようとする態度を問題にしているのだ。
◇人を受入れることのできる最大の根拠は「3:神はこのような人をも受け入れられたからです」。私たちは互いにキリストの貴い犠牲によって罪から救い出され、買い取られた。そして今もその神の愛に包まれ、守られている。信仰の周辺的な事柄について固執し、対立し、裁き合うのは、神に先立って最終判断を下す傲慢な態度である。
◇彼/彼女をも愛し、そのためにキリストを差し出された神は、各人に別々のプランを持っておられる。「常に主を覚えてあなたの道を歩け」(箴言3:6)。決して画一的な道ではなく、「あなたの道」と言われている。神は各人にふさわしい道を備えておられる。人の生き方を安易にさばいたりするのは、神の事業にあらさがしをすることだ。私たちの教会では「信仰の一致が生活の多様性を生む」ということを大切にしたい。信仰の一致を求めない宗教は、生活の一致を要求する。本当の信仰による自由を得ている人は、柔軟に他者を受け入れ、多様性を喜ぶこともできるはずだ。
◇ルターの『キリスト者の自由』に、「キリスト者は何人にも従属しない君主である」と同時に、「何人にも従属する僕である」とある。私たちは「仕えられるためではなく仕えるために」(マタイ20:28)来られた主にならって、すべての人に仕える姿勢を持つが、究極は私たちはそのキリストの僕(「4:召使い」)である。決定権はキリストにある。さらに「8:生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」。私たちは生死を超えて主のものである。「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか」。「わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります」(ハイデルベルク信仰問答)。
◇今日は振起日。聖餐をいただいて新たに私たち一人一人が十字架の主に召された僕であり、主のものであることを自覚し直したい。そしてお互いを、共に召された者同士として見出し、尊重し合いたい。
◆2003.08.31 聖霊降臨節第13主日
「聞くに早く話すに遅く」 アモス書5:18−24 ヤコブの手紙1:19−27
牧師 大村 栄
◇「22:御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」と、信仰と行為の両立を語る「ヤコブの手紙」を、宗教改革者ルターは価値の低い「わらの手紙」と呼んだ。彼の宗教改革は、ローマ書にある「キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」(3:22)を根拠として「信仰義認」、すなわち信仰によってのみ人は義(=正しい)とされると説いた。16世紀の教会は権力と財産を維持するために、信じるだけでなく行為が必要と教え、免罪符を売ったりしていた。ルターはこれに対抗(プロテスト)せずにおれなかったのだ。
◇パウロの「信仰のみ」は、信仰に入る条件に関する勧めである。ほかには何もいらない。一方ヤコブはすでに信仰に入った者について語っている。もし信仰が、愛と憐れみの行為となって実を結ばないならば、その信仰は空しいと言わぎるを得ない。実際は信仰と行為の両方を、偏りなく尊重するのが本来のあり方であろう。
◇信仰と行為が両立する生きた信仰を奨励したのは、メソジスト運動を展開したジョン・ウェスレー(1703−1794)。彼はパウロの「信仰義認」を継承しつつも、同時に信仰が生活面での実りを挙げることを大切にした。彼は社会問題にも関心を持ち、産業革命を迎えた18世紀イギリスの抱える様々な問題に積極的に参与した。
◇以来、メソジスト教会はそのような性格を持って世界に拡大した。後に、カナダのメソジスト教会が日本に最初に派遣した宣教師カクランから受洗した若者の一人が平岩愃保牧師。晩年に自宅を開放して日本メソジスト阿佐ヶ谷教会を開いた(1924年)。
◇戦時中に合同した日本基督教団は、1954年に各旧教派から代表が集まって、「信仰告白」を制定する。その際に旧メソジストの牧師たちは、告白の中の「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ」という「信仰義認」の条項に加えて、「この変わらざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果(み)を結ばしめ、その御業を成就したまふ」という言葉を挿入することを強く要求したという。この「義の果」が信仰の実践である行為に当たる。
◇しかしそういう理解をしても、言葉と行いが分裂し、実践に踏み出せない自分に気付かされる。このような自分の弱さから目をそむけず、少しでも変えられることを神に祈り求める者でありたい。それが真実に人生を生きることなのではないだろうか。
◆2003.8.24 聖霊降臨節第12主日
「神の子の声を聞く時」創世記42:29-38、ヨハネ福音書5:19-30
伝道師 川俣 茂
◇父なる神は御子を愛している。父なる神はご自身の為さることのすべてを御子に示す。そして御子はその示されたことを為す。その中で最も大きな業は、 主が命を与えるという業であり、裁きを為す業である。
◇父なる神は死者を復活させて命を与える。これは旧約の教えでもある。しかしその命はあくまでも神が与えるものであって、御子が与えるとは語られては いなかった。父なる神が亡き者を手に取り、霊的な命によみがえらせて下さるとともに、御子も同様に死の状態にある者を取り、与えたいと思う者に霊的な
命を与えて下さるのである。
◇父なる神と御子とは一体である。それゆえ、裁きの権能が御子に与えられ、御子の言葉を信じる者は父なる神をも受け入れることになる。そしてそれに よって永遠の命が与えられる。永遠の命をいま持っていることの意義は、いま現在だけではなく、終わりの日にも裁かれることはない点にある。また主イエ
スは終わりの日に、人々を裁く裁き主となる。「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」。霊的に死んでい る者は、神の子の声を聞くことによって生き、生かされることになるのだ。
◇それとともに28・29節で、死者を墓から呼び出すのは、御子の声であると断言している。終わりの日に御子の声が復活の到来を告げる。死んだ人すべ
てが呼び起こされる。しかしその時に、その人の信仰が本物かどうかが問われる。それに基づいて裁かれるかどうかも決まることになる。
◇私どもに求められていることは、創造以来の神との関係、これを受け入れて命を得るか、それを受け入れずに結果として裁かれることになるのかを選択し なければならない。人となられた神、イエス┬疋キリストを受け入れるか否かが問われている。確かに死によって人間の声を聞く耳は閉ざされる。しかし、神
の子の声を聞く耳も閉ざされるわけではない。神の子の声とは、すべてを造りたもうお方の子の声である。それゆえ、聞く力が与えられ、命に目覚めさせら れることになる。ルカ福音書の十字架の記事にあるように、死なんとする犯罪者であっても、主を心から受け入れた者は死に飲み込まれてしまっても、楽園
での命が約束され、神の子の声を聞くことが許されているのだ。
◇死んでも神の子の声を聞くことが許されている。そこに私どもの拠るべき真理がある。そこに私どもはすべてを委ねきることができる。信頼することがで きる。そこにこそ信じる者にとっての慰めがある。
◆2003.08.17 聖霊降臨節第11主日
「敵が兄弟になるまで祈る」 哀歌3:25−36 マタイ福音書5:38−48
牧師 石田 悦子
◇善いサマリヤ人のたとえは、「わたしの隣人とはだれですか」という質問の答えとして、イエスさまが話してくださったものでした。私は、「わたしの敵とは誰ですか」と考えさせられました。
◇詩編41:10「わたしの信頼していた仲間、わたしのパンを食べる者が、威張ってわたしを足蹴にします」。詩編55:13−14「わたしを嘲る者が敵であればそれに耐えもしよう。わたしを憎む者が尊大にふるまうのであれば彼を避けて隠れもしよう。だが、それはお前なのだ。わたしと同じ人間、わたしの友、知り合った仲」。ここでは、敵はもっとも近くにいる同胞が変質したものです。
◇悪魔は、思い上がって堕落した天使であり、主イエスを裏切ったのは12使徒の一人のユダでした。敵は兄弟との関係が悪い方向に変化したものです。兄弟や友が敵に変化することもあるし、敵が友や兄弟に戻ることもあります。善いサマリヤ人のたとえは、関係が悪くなっていた人々の中で行われた親切でした。
◇敵が兄弟に戻るのは、キリストの宣教・伝道においては日常的におこりました。その代表例がパウロです。パウロは、ステファノというキリストの兄弟が迫害にあって殺される時、殺す側にいた人です。そして、ステファノの殺害に飽き足らず、キリストの弟子を捕らえることには熱心な人でした。明らかにパウロは、キリスト教会の敵でした。しかし血筋からいえば兄弟といえる人でした。キリストの弟子たちは、パウロの熱心な追跡を恐れました。その追跡の途中、パウロは復活のキリストに出会い、「なぜわたしを迫害するのか」と語りかけられ、キリストの弟子に変わりました。180度の転換がおこりました。パウロは、キリストの敵から使徒に変わりました。敵が友に変わると、かつての同胞から裏切り者と思われます。パウロは、伝道旅行のあちこちで、かつての仲間からひどい迫害を受けるようになりました。
◇実際の戦争で敵を愛したら大変です。その人は同胞からは敵のスパイだと思われます。しかし、歴代のキリストの弟子たちは迫害する者のために祈りました。十字架の上の主イエスが祈りました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ福音書23章34節)そして、ステファノも自分に石を投げている人のために祈りました。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒言行録7章60節)。この祈りの先に、パウロの回心があります。祈りにより、神が敵を兄弟に戻してくださったのです。もともと父なる神から創造されたのですから、敵がいるのは不自然なのです。父は、敵が兄弟に変わる祈りを待っていてくださいます。
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◆2003.8.10 聖霊降臨節第10主日
「もう罪を犯してはいけない」 創世記2:1-3 ヨハネ福音書5:1-18
伝道師 川俣 茂
◇イェルサレムのベトザタの池。そこに38年間も病に苦しめられている男がいた。どんな策を講じても癒されることはなかった。
◇主イエスはこの男に「良くなりたいか」と問を発する。他のいやしとは異なり、このいやしは主が主導権を握っていたことが示されている。
◇この男に対し、主は「起きよ、床を担いで歩け」と命じる。我々はいやしの前提として信じる、あるいは信仰を告白することが必要ではないかと考えるこ とがあるが、この例では必要とされていない。救いがすべての人に開かれていることを示しているのにほかならない。
◇この出来事が起こったのは安息日であった。安息日とは本来、神がすべての創造の業を離れ、安息された日である。神の日・主の日である。しかし、律法 の厳守という観点から、次第に安息日の本来的な性格が見失われてしまったのである。
◇ユダヤ人たちは、このいやされた男に対し、この日が安息日であり、男の為した行為(床を担いで歩いた)が律法に抵触していると告げた。このことに驚 愕した男はすべての責任を主に負わせようとした。
◇主は後に神殿でこの男に出会い、「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない」と語る。このいやしは永久的なものであることを示し、それ ゆえに以後、罪を犯してはならないと命じるのだ。その結果による永遠に続く滅びの方が、肉体的な滅びよりもはるかに重大な事態であった。
◇この一連の出来事によって、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」という言葉、そして自分自身が安息日の主であるとい う真理が引き出されることになった。神は休むことなく働いておられる。それゆえ、子なる自分も働く。安息日が父なる神・子なるキリストの働きに干渉す
ることはできない。
◇しかし、何を語ってもユダヤ人にとって主の言葉は神を冒?するものでしかなかった。やむなく主は反論されたが、結果としては祖先の律法を破る者とし
て非難され、それは同時に、十字架への道を歩むということも意味していた。
◇男に起き上がって歩き出す力を与えたのは、主の権威ある言葉であった。律法だけでは人を救うことはできない。と同時に、何よりも14節の言葉によっ て、主は我々の肉体的な健康よりも霊的な生活、霊的な意味での健康に心を砕いてくださるお方であることが示されているといえる。
◆2003.08.03 聖霊降臨節第9主日
「してもらいたいと 思うことを人にも」 レビ記19:9−18ルカによる福音書6:27−36
牧師 大村 栄 <平和聖日>
◇27−28「憎む者に親切を。悪口を言う者に祝福を祈り、侮辱する者のために祈れ」。相手の態度に応じてではない、積極的な愛の行為が命じられている。32「罪人でも、愛してくれる人を愛している」。この「罪人」とは、神との関係を大切に考えない人々のことだが、世間一般の常識を象徴している。昔から一般約に社会秩序の親範とされてきたのは、ハムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」であろう。「同害報復法」と言われるこの制度は、報復を合理化、制度化したものだ。人類社会の秩序を保つ原則は、報復の正当性だということになる。やったらやられる、だからやらないという規準で規制しようとし、しかし親制しきれないできたのが人類の歴史である。
◇主イエスの示す新しい規準は、「31:人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」という「黄金律」Golden Rule。相手の出方に応ずるのでなく、積極的・自発的に行う善は、相手が受けとめてくれるとは限らないから勇気が必要である。しかし神が見ておられ支えて下さるとの信頼によって可能となる。「35:人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである」。
◇今日は平和聖日。「平和を実現する」(マタイ5:8)行為にも勇気が要る。相手の出方次第と考え、報復の正当性を主張する社会では、この勇気は育てない。「我々が再軍備しないと主張するためにはいかなる根拠があるか。その一つは神こより頼んで絶対平和に立つことを決心する国民に対しては、いかなる外国の軍隊も侵入して来ないであろう、神は神を信じる者を捨て給うことはないであろう、という信仰であります。これは、神の守りを信ずる絶対信頼から生ずる態度であります」(矢内原忠雄「聖書から見た日本の将来」1951年)。安全だったら神を信じるのではない。相手が好意的だと分かったら善を行うのでもない。勇気を出して積極的に、神の見守りを信じて、善を行い、平和を造り出す者になりたい。
◇「善いサマリア人」は傷ついた旅人を預けた宿屋(教会)に「帰りがけ」に再び来る。その時まで教会は、世の課題に関わる委託を受けている。消極均・防御均な関わりでなく、積極均で自発的な、「してもらいたいと思うことを、人にも」行うような関わりをしていく勇気を、「再び来られる主」を見上げる信仰によって与えられたい。
「愛されてこそ愛せる」エレミヤ書31:31-34、ルカ福音書7:36−50
大村 栄 牧師
◇ファリサイ派のシモンの家に主イエスが客として招かれていた.、宴席の設けられた中庭には誰でも自由に入ることができ、一人の「罪深い女(娼婦)」も主の言葉に聞き入っていた.その内に彼女は「38:後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」.洗足や塗油は最大級のもてなしの行為だが、シモンはこれらを怠った.招かれざる客である女だけは、心底この方をこの方を自分の中に迎え入れ、この方を「主」として迎えたいとの熱い思いに満たされたのだ.
◇彼女にそんな決断を与えた主の言葉は何だったか.そのヒントとなるのは主が語られたたとえ話し.500と50デナリオン(約300と30万円)それぞれ借りた人が、どちらも帳消しにしてもらった.42:二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」.もちろん多く赦された方だ.この借金は神に対する罪を象徴する.人間に内在しながら人間をゆがめる罪は、これを罰する立場にある神に赦すと言われて始めて解決する。そんな話しを開いていた「罪深い女」は、赦しの本質を始めて知って涙したのだ。
◇シモンは、「39:この人がもし預言者なら自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ.罪深い女なのに」と思った.彼はファリサイ派らしく、この女の罪を忌まわしい汚れと考え、主イエスは罪を指摘し、批判する立場にある「預言者」のはずなのに、汚れた女の接触に寛容すぎると思っている.しかしイエスの立場は少し違う.罪を批判する面もあるけれど、それを超えて赦しを語る.その赦しに包まれて、罪人が自分の罪を直視し、克服して生まれかわるようにと促してくださる.借金のたとえで、貸し主のみが借金を帳消しにできるように、神の前での罪は、神とその独り子のみがこれを赦すことができるのだ.
◇エレミヤ書31章は「新しい契約」と呼ばれる.「34:わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」.その「新しい契約」のしるしがイエス・キリストの到来にほかならない.深い罪の自覚を持つ女は、主の足もとにおいてこの方の到来の意味を感じ取り、感謝して愛の涙を流した.「42:二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」.「どちらが感謝するだろうか」ではない.その後の彼女については不明だが、多く赦されたことによって多く赦すことができる人に、多く愛されたことによって神を多く愛し、人を多く愛する者になっていてくれたら、と思う.
「キリストの出番」サムエル記下12:15b−23、ルカ福音書8:40−56
大村 栄 牧師
◇会堂長のヤイロは、会堂を追われた主イエスに、自分の立場も忘れてひれ伏し、一人娘の癒しを求めた。その癒しのために赴こうとする主イエスを群衆が取り巻き、その中から長血をわずらう女がそっと近寄った.この病は不浄であるとして、礼拝はもちろん、友人との交わりにも入れなかった.からだの病である以上に心の痛みでもあったろう.讃美歌300番の3節「こころもからだも病めるときに、御袖にふれなばたちまち医えん」。すがる思いで主イエスの服のすそに触れそして「たちまち医」えた.
◇主イエスは「わたしに触れたのはだれか」と、名も告げずに退散しようとする女を追い求めた。主は癒しだけにとどめず、さらに踏み込むことを求める.弟子たちはそれを理解しなかった.私たちも奇跡(=御利益)こそが「救い」であると思っている.「重い皮膚病」を患う十人をいやす記事(ルカ17:11−19)の中で、癒されたのは10人だったが、完治を認定された後、戻ってきて「神を賛美」したのは1人だけ.この1人に対して「あなたの信仰があなたを救った」と言われた.残る9人は「癒され」たけれど「救われ」てはいないのだ.
◇キリストの宣教の中心は「癒し」でなく「救い」である.救いとは神との関係の崩れを回復し、自分が神に造られ、生かされてもいる者に相応しく生きるようになること.それを実現するために神はキリストを世に送り、十字架の購いによって関係を回復しようとされた.そうした神による関係の回復への招きに応えることが求められている.長血の女も主の招きに応えて「47:震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した」.彼女は主を信じて、過去も現在もすべてをみ手に委ねた.すると主は言われる.「48:娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」.「力を捨てよ、知れわたしは神」(詩編46:11)招きに応えてすべてを委ね、まかせきること.それが「信仰」であると言われる.
◇長血の女をみている内に会堂長ヤイロの娘は死んでしまった.「この上、先生を煩わすことはありません」という状況でも、主は彼の家に行き、「娘よ、起きなさい」と呼びかけると娘は起き上がった.このような人間の手の及ばなくなったところにこそ「キリストの出番」がある.死後の事柄にも唯一手を差し伸べることのできる方を信じる信仰によって、神との交わりに引き戻され、「あなたの信仰があなたを救った.安心して行きなさい」と告げられたい。
◆2003.07.13 聖霊降臨節第6主日
「小さな者の一人まで」エゼキエル書34:11一22、マタイ福音書18:10−20
大村 栄 牧師
◇前半「迷い出た羊のたとえ」で、迷い出た羊はわずか一匹でも、羊飼いはこれを軽んじない.10:「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」。ルカ福音書15:3−7に同様の並行記事があるが、一匹がいなくなったことに気づいた時、羊飼いが残り99匹を残しておいた場所が、ルカでは「野原」、マタイでは「山」。
◇マタイで山と言えば5−8章の「山上の説教」.山の上で弟子たちに集中的に教えが語られた.17章では「山上の変貌」.山の上で主イエスの姿が変わって輝き、神の子であるということが明らかにされた.そういう聖なる場所、そして学びの場所.これは「教会」を暗示している.羊の群がここに集められ、神の民、神の家族として共に暮らす。そこから迷い出る羊がいた時には、どんな弱い人でも、一人一人を大切に扱い、山である教会に戻してあげる.それが今日のテキストの構造的な主題である.
◇「つまずきは避けられない」世にあって、羊飼いなる主イエスは、つまずき倒れる弱い者を一人一人訪ねて、神の家族なる教会へと導いて下さる。そういう主の委託を覚え、私たちはその手足となって働こう.
◇今日おこなう地域別一斉集会の原点は、メソジスト教会の「組会」であり、その起源は18世紀イギリスのジョン・ウェスレー.彼は神の言葉を求める者がいればどこへでも行って語ろうとした.そのような伝道への熱意を実現するために作られた制度が「組会」.小さな者の一人にも福音が届くことを願って、この制度を大切にしたい.
◇教会が語る福音の究極は、【キリストの購いによる罪の赦し】である.「18:あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」.これは人間を罪から解放する(赦す)か否かという重大な問題を指す。教会が赦しを取りつがないならば、天においても解放を得ない.「19:あなたがたのうち二人が地上〈教会〉で心を一つにして(罪の赦しを)求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」。ここに教会の権威と、重大な責任がある.
◇小さな者の一人でも、その人の救いと赦しのために共に祈り行動する。教会はそういう機関である.機関とは「個人または団体がその目的を達する手段として設ける組織」(広辞苑).教会は手段であって、それ自体が目的ではない.神の目的に添って機能する組織でなくてはならない.すべての者が与えられた命を豊かに生きることを望んでくださる神の目的に仕えよう.
「平和があるように」詩編122:8−9、第一コリント 3:1−7
石田 悦子 牧師
◇キリストの使徒パウロの願いは、人々が争いをやめることです.霊による啓示が大事でありながら、わたしはあなたがたに肉の人に語るように語ったと反省していまいます.かつて一緒にいた頃は、霊の人に語るようには語ることができなかったので、今この手紙で語り続けるのです.
◇争いをやめさせようと語り続ける姿は、ルカ福音書15章の放蕩息子と真面目な息子の不和の中にいる父親の姿のようです。父親は二人の違う性格の息子を、ひとつの食卓に祝宴の席につかせようと苦労します.出ていった息子が帰ってきたことを無条件に喜ぶ、父親のやり方に不平を言う上の息子のところに出かけていき、説得します。生き方が違う、ふたつの陣営のあいだを行ったり来たりして、争いをやめるように語り続けます.和解の願い、平和の願いは、父の願いです。そして、放蕩息子のたとえの結末は、ありません。兄が弟をゆるし、自分の態度を反省し、共に祝宴の食卓についたとは語られていないのです.ここで、たいがいの親は、もう喜ぶことはできません。
◇兄弟の間で争いがある以上、考えます。自分の育て方が間違っていたのではないか.そうやって心を痛めているのは、息子の父親であり、理解されない神であり、十字架につけられたキリストであり、あなたがたのうちに住んでおられる聖霊なのです。
◇兄弟の間の争いは、いったん建てた神の家を火のように燃え尽くしてしまいます。イエス・キリストを土台に家を建てることは、ゆるしあいながら家を建てることです.性格の違い、立場の違い、趣味の違いを超えて、一致にいたる力は、愛の力です.兄弟の間の争いを、鎮めようと語り続けられるこの手紙には、キリスト信仰の大事なことがすべて含まれます.キリストの十字架以外何も知りたくない、と語り始め、信仰があっても愛がなければ何にもならないと語り、キリストの復活がなければ、あなたたちの信仰はむなしいのだと語るのです.信仰という言葉さえ、キリストの十字架、キリストの復活、神の愛の前には、かすんでしまうのですから、ましてあなた方の間にある争いの原因である事柄は・・・という思いが手紙からあふれ出ています.
◇争いは、神の子イエス・キリストを悲しませます。そのことを、わたしたちの心に住んでおられる聖霊が教えてくれます。心の平和は、争いのあるところにはありません.そして、人をゆるせないときも平和はありません.そんな時は、心の中に住むキリストを証しする聖なる塞が教えてくださいます。心の中に響く、良いすすめに従って生き、平和をつくりだすもの、キリストの子、神の子に成長していきたいと患います。
「はっきり言っておく」民数記21:4−9、ヨハネ福音書3:1-15
川俣 茂 伝道師
◇ある夜のこと、ニコデモという人が主イエスのもとにやって来た。ニコデモの問に対し、主は直接応答せずに、すぐに核心となることを語る.ニコデモが問わんとしていたことは、主イエスが語らんとしていることでもあった.しかし、ニコデモは主の語っていることがわからなかった.
◇「新しく生まれる」ということは人間の側の努力では為し得ない。と同時に神の賜物であるイエス・キリストを喜んで受け入れることでもある.それは人生の内的な意味に於ける180度の方向転換であって、闇から光へと移される出来事にほかならない.
◇ニコデモの困惑(9節〉に対する主の言葉は大変に重要である.「新しく生まれる」ということから、「主イエスを信頼する」ということが強調されている.主は「地上のこと」を証ししたのだが、信じてもらえなかった。主は天から来たお方である。しかし、天に上った者は誰もいない.天に上ろうと思うことは『イザヤ書』14章の「時の子」のように真に罪であった。確かに天に上ることは不可能だとは言い切れない.しかし、それは「霊によって生まれる」ことによってのみ可能となるのであって、「人の子」なくしては為し得ないものである.
◇主は『民数記』21章の「青銅の蛇」の物語から、ご自身の死の目的を示そうとしている。十字架上に高く上げられるだけではなく、荘厳に高く上げられることをも指している.それは信仰ある者の目には、至高の栄光であるだけではなく、いまも栄光の姿である.なにより主の死の目的は信じる者に命を与えることであった.
◇この3:1-15の主の言葉には3回、「はっきり言っておく」が入っている.そしてそれに続いて重要な真理が語られていることに注目。しかし、2人の会話はかみ合っていない.聴くには聴いているが、理解できていない.これは何もニコデモだけではない.弟子たちもそうであったし、今日の私どもにも共通しているかもしれない.
◇この福音書ではこの後、ニコデモは2回登場する(7章・19章).変えられたニコデモの姿を見ることができる.主の言葉は聖書の働きによって、むなしく帰ることはなく、それを成し遂げる力を持っている.
◇私どもには厳しい現実があるかもしれない.思いもよらぬ出来事があるかもしれない.しかし、「新たに生まれる」ことによつて、また神の憐れみによって慰めが与えられることがある.ここにこそ、信じる者の慰めがあり、希望がある.
「信じること」ヘブライ書11:1−7
「信じてふみだす」ヘブライ書11:8−16
大村 栄 牧師
◇「1:信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」.自分には「見えない」けれど、神はすべてをご存じだから大丈夫、と信じる心が信仰.「2:昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」.例えばノアは「7:まだ見ていない事柄(大洪水)について神のお告げを受けたとき」に、すべてをご存じの神さまがおっしやるのだからと信じた.「神さまください、信じるカを」(ようじさんびか).
◇カインとアベルはアダムとイブの間に生まれた兄弟、神への献げ物をめぐってけんかをし、兄のカインが弟アベルを殺してしまう.「4:アベルは死にましたが、信仰にょってまだ語っています」.信じて生きた人は、たとえ悲惨な最期を迎えても、その信仰は空しく終わらない.「5:信仰によって、エノクは・・・天に移されました.神が彼を移されたので、見えなくなったのです」エノクは若くて死んだ.人の目には無念な死に方に見えても、神の世界にその人の存在の意味があって「移された」のだ.
◇「8:信仰によって、アブラハムは、・・・出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです」.彼の生涯は決して偉大ではない.弱さを持った人だけれど、聖書はアブラハムを「信仰の父」とする.信仰で大事なのは失敗しないことや、罪を犯さないことではなく、ただ信じて従うこと.彼は「信仰によって」、「行き先も知らずに」未知の土地へと旅立つことができた人だった.
◇「3:信仰によって、わたしたちは、この世界が神の青葉によって創造された」ことがわかる.どんな未知の土地へ赴くとしても、そこも必ず神の世界の一部.どこでも、どんな時も、神を信じて歩むことができる.私たちにとって最も未知の土地とは、死後の世界と歴史の終わり.これに閑しても、「8:行く先を知らないで」旅を続けた信仰の先達たちに学ぶことができる.
◇「13:この人たちは皆、信仰を抱いて死にました.・‥自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表した」.よそ者とは、故郷を目指して旅を続ける人。神さまの約束された故郷に到達するのはまだ先だけど、そこに最後の目標があることを知り、希望を持って旅を続ける旅人たち.途中にアベルやエノクのような辛いことがあっても、アブラハムのような失敗や不安があっても、最後に一番良い「16:故郷、すなわち天の故郷」が備えられていることを信じて踏みだすのである.
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「その話に聞き入っていた」ルカ福音書10:38−42
松居 直 先生
◇マルタとマリヤの話.ある人は話を聞き、ある人は話しを聞き流す、この違いはいったいどこからくるのだろうと、ある時期真剣に考えたことがあります.そして、聞く人はその人の中に、聞いた言葉と響き会う言葉を持っていることに気づきました。自分の中に受け皿を持っているのです。ですから、こどもの中に言葉の種を蒔くことはとても大事なことです.
◇ハイジは人の話をよく聞く子どもでした.その力は、聖書物語を読んでもらったことに由来します.語られた言葉に興味を持つと、子どもは文字を覚えます.そして今度は人に読んであげることができるようになります.ハイジは、目の見えなくなったおばあさんに讃美歌を読んであげました.おばあさんが涙を流して喜んでくれたので、ハイジもうれしくなりました.人は、自分の話しを聞いてくれる人がいることに喜びを感じます。聞いてくれる人が誰もいないとノイローゼになります.人の話しを聞くということは大事です.教会が、聞いてくれる場所であってほしいと願います.
◇赤ちやんを育てているお母さんの言葉は、無意識に語りかけているのですが、とても暖かいのです.皆さんは誰から育葉をもらいましたか.私は母からです.言葉をもらい、命をもらいました.命を支える言葉をもらい、自分を表す言葉、名前をもらいました.赤ちやんはお母さんの声が分かります.聞こえてくる方を頻繁に見ます.特にお母さんの口元をよく見ます.そしてその声を聞くと安心できるのです.語りかけられた言葉の力は大きいのです.命や言葉は、神さまが母親を通して下さったものです.しかし最近は、あまり語りかけないお母さんもいるようですが….教会は子育てに戸惑っているお母さんのために、開かれた場所であってほしいと思います.
◇言葉を身につけていくことは大切です.2〜4才の子どもは、好きな本なら一言半句違わないで覚えます(俵万智さんの例).彼らは言葉を聞いてむさぼり食べます.喜びの言葉を聞いて、生きる力をもらっているのです.パウロ書簡は朗読されました.「この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように、わたしは主によって強く命じます」(?テサロニケ5:27).私たちも聖書の言葉を聞いて、むさぼり、命を得ましょう.「あなたの御言葉が見いだされたとき/わたしはそれをむさぼり食べました.あなたの御言葉は、わたしのものとなり/わたしの心は喜び躍りました」(エレミヤ書15:16).教会の力に衰えがあるとしたら、それは聞く力の衰えに違いありません.
「聖霊による教会の誕生」創世記11:1−9、使徒言行録2:1−13
大村 栄 牧師
◇「五旬祭」(ペンテコステ)の日、弟子たちは失意を抱えて集まっていた.主イエスを裏切り、我先に逃げ出した忌わしい経験を通して、自分の弱さを思い知らされた彼らが、共に座して祈っている.ここに聖霊が注がれる.カラの器には水が多く入るように、絶望の中にあった彼らには神のカなる聖霊が一杯に満たされた.そして「4:一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままにほかの国々の言葉で話しだした」.これが世界に教会が誕生した日である.
◇地中海から中近東にかけては、人種と言葉の坩堝場。使徒たちがそれらの言語を使い分けたのか.あるいはすべての人に共通する言語がここに開発されたのか。
◇創世記11章「バベルの塔」は自らを高め、神の領域に達しようという、人間の傲慢な企てだった.主はこの傲慢な試みに「待った」をかける.行き過ぎた文化に対する神の介入と阻止である.言葉が通じなくされたことによって工事は中断し、やがて塔は廃墟となった.同時多発テロの標的となったNY世界貿易センタービル崩落を、バベルの塔と関連して考えた人は多い.どちらも音葉の乱れによる騒乱だ.今こそ世界は言葉の混乱を正され、この混乱を招いた傲慢をうち砕かれなくてはならない。それについての希望を、私たちはペンテコステの聖霊降臨に見出すのである.
◇ペンテコステには、それまで破壊されていたコミュニケーションが聖霊によって再生した.使徒たちが「11:神の偉大な業を語る」という出来事において、言語の隔てが解消されたのだ.神のみ業を語る言葉には、言語の違いを越えたものがある.私はインドではヒンズー語の礼拝に出席し、タイの山奥の村ではカレン語の礼拝に出席した.神への讃美や祈りには、言語の違いを越えた信仰の一致によるコミュニケーションが存在するのを確信した.ペンテコステに起こったことは、「神の偉大な業」を告げる讃美と祈りの言葉は、言語を超えて人の心に伝わり、人の心を一つとすることが出来るという事実の証明だったのである.
◇それは人間の努力によって習得される言葉ではない.聖霊に導きによって与えられる言葉である.聖霊は天地創造において「土の塵」で造られた人間に注ぎ込まれた「命の息」である(創世記2章).私たちはもう一度、天地創造の始めに返り、神の息吹に生かされる者としての、被造物の原点としての自分自身を取り戻し、お互いを、そしてこの世界を取り戻したい.誰よりも神ご自身がそれを望んで下さっている.
「地の果てまで」マタイ28:16−20,?コリント9:19−23
大村 栄 牧師
◇先週29日(木)はイースターから40日日に当たるキリストの 〈昇天日〉。これは使徒言行録1:3「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、40日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」を根拠にする。昇天によって主は、(1)天国の存在を保証し、そこへの道を開かれた.(2)時間と空間を超えてすべての人と共におられる方となった。さらに(3)紳の右に坐し、私たちの祈りをとりなして下さる.
◇昇天に当たって伝道への派遣がなされる。福音書が単なる伝記でなく、復活に及び、さらに復活後の派遣にまで及んでいるというのは、福音を信じて生きることと、それを宣べ伝えることとは一体であることを示す.伝道は困難なことである.特に身近な家族などに福音を宣べ伝えるのは最も困難だ。しかし伝えることと生きることは一体であるから、私たちが本当に福音に生きようとするならば、福音は自ずから周囲に伝達されていく.伝道は「道を伝える」と言うより、それ以前に私たち自身が「道を伝う」(生きる)ことであり、そうすれば自ずから「道は伝わる」と信じたい.
◇キリストの派遣命令をよく見ると、「弟子とせよ。洗礼を授けよ。教えよ」との三段階を踏んでいる。キリストの弟子とはイエスをわが主として従う者(キリスト者)である。〜教徒や〜主義者ではなく、キリストと共に生きることを望む人。この弟子になるために洗礼を受ける。パブテスマは聖霊の導きによって起こる主イエスとの出会いであり、その導きに身を委ねる決断であるが、これに続いてみ言葉の学びが行われる.それが「教えよ」.「洗礼を授けよ.そして教えよ」との順番を覚えよう。
◇時には疑いもあろう.「17:しかし、疑う者もいた」.この世の現実は別にある・・・と。主イエスがガリラヤ湖上を歩くのを見てペトロも歩き出した。しかし途中で「怖くなり、沈みかけた」(マタイ14)。信じて踏みだした時は歩けたのに、現実に目が奪われ、心が割れた時に歩けなくなる。疑いはそのように私たちの歩みを妨げるものであるが、そういう者にも手を伸べ、「18:イエスは、近寄って来て」下さる。
◇「19:あなたがたは行って、すべての民」に宣べ伝えよと、地の果てまで送り出されるのだが、ルオーの絵画「郊外のキリスト」に見るように、私たちの日常生活のすぐそばに、福音を必要としている魂がある。派遣されていこう。「20:わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」.
「新しい創造」イザヤ書40:25−31,コリント?5:17−21
大宮 溥 牧師
◇阿佐ヶ谷教会の教師としての任を終えるにあたり、土の器としての欠けを思いつつ、主の導きによってその務めを最後まで果すことができたことを心から感謝している.私はキリスト教には縁のない家庭に育ったが、幼ない時から神秘荘厳なものへの畏敬を覚えてきた.「世界が造られた時から、目に見えない神の性質、神の永遠の力と神性は被造物に現れている」(ローマ1:20).
◇しかしこの神がキリストを通して、明らかに示され、確かな救いを与えて下さること、「キリストにある神」の福音に触れたのは、太平洋戦争後であった。あの時日本は焦土と化し、精神的にも民族神化の道がくつがえされ「地の基は震え動く」(イザヤ24:18)状態であった.闇の中を手探りする思いで故郷の教会に行き「新しい創造」の福音を聞いた.社会もまた未成年の自分も、罪と壊滅の中に放り出されていたのに対して、それを今一度再生再起させる力がキリストを通して与えられているというのである.キリストが十字架と復活を通して、壊滅状態の世界を御自分に引き受け、これを清算し、更に復活の生命を私たちに与えて下さったというのである.「和解」(カクラゲー)(18節)は原語で交換を意味するが、キリストと私たちとの運命の交換によって、われわれは「新しく創造された者」(17節)とされたのである.
◇この福音によって新しくされ、伝道者として今日に至ったが、これを果すことができたのは、全く神の憐れみと導きである。ある挫折経験から悶々として夜を迎えた時、瀬戸内海の満天の星空に息を呑むような感動を覚えたが、その時「なんぢ眼をあげて高きを見よ.たれが此等のものを創造せしやを思へ」(イザヤ40:26)と「なんぢ腰ひきからげて丈夫(をとこ)のごとくせよ」(ヨブ38:3)であった.私はこれを私への神御自身の呼びかけとして聞いた。天地の造り主である神が土の器をお召しになっている.だから一度や二度の失敗に挫折せず、立ち上って歩もうと決意させられた.
◇イザヤ書40:31は、神が行き悩む人間に「仲間の旅人の足跡」(クレイブヘル)を示す言葉である。人生の厳しい局面に立たされて、雪原に放り出された様な人に、同じ場を旅した人の足跡が、行くべき所を示し、歩む力を与えてくれる.主はわれわれの旅仲間として、勝利の道を示して下さる.現代は何を土台として生きるか、土台のぐらついている時代である.主と結ばれて、「新しい創造」としての自覚を与えられこの福音に生き、この福音を伝えよう.
◆2003.05.18 復活節第五主日
「真実のよそおい」申命記7:6−11,ガラテヤ書3:26−4:7
大村 栄 牧師
◇ガラテヤ